Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

ファクシミリ

たしかウィトゲンシュタインの論文集だったと思うが、いろんな雑誌に掲載された論文を組版とかをまったく変えずに集めただけの論文集をむかし研究室で見かけた。雑誌に掲載されたときのページ数とかもそのままコピーされているので、ある意味便利だなと思ったものだけど、そういうのを「ファクシミリ版」と呼ぶことを最近知った。

たぶん「リプリント」とは違うのだろう。リプリントだと、組版とかも論文集全体で統一するために変えることになるだろうから。最近はファクシミリ版の論文集とかまずないんだろうなぁ

エンダートンの教科書

最近、定評あるHerbert Endertonの教科書(A Mathematical Introduction to Logic)の日本語訳が出た。私もこの本で論理学を勉強した人間の一人なので、この素晴らしい本が多くの人に読まれるのは喜ばしい。 

論理学への数学的手引き

論理学への数学的手引き

 

amazonのレビューがとんでもないことになってるが、見なかったことにしよう。 

さて、日本語訳を手に取る機会があったので、訳者のコメントを読んだところ、シェークスピアなどからの引用がちりばめられている、と書いてある。「あれ、そうなの?」と思ったが、訳注で解説されている箇所がいくつかあって、たしかに改めて見てみると、変わった例文とか使ってたのね。例えば、1.1節では、条件文の例で

  • If wishes are horses, then beggars will ride.

これはスコットランドの方言らしい*1

2.0節では、存在量化文の例で

  • There is something rotten in the state of Denmark.

これは『ハムレット』をもじったものらしい。

まあ、こういう箇所はそう多くはなさそうなので、記憶に残らなかったのは不思議でないかな。高尚な例文がいっぱい出てくる論理学の教科書としては、ウェズリー・サモンの『論理学』とかいいと思う。

ヘンペルのカラス(2)

哲学とは万物を熟考しつづける学問だが、どんな仮説に対してもぼんやりし続ける、ということにかけて常人の想像を絶するような例が数多く存在している。たとえばそのうち1つが「ヘンペルのカラス」という考え方だ。

これはドイツのカール・ヘンペルが1940年代に指摘したものであるが、「ヘンペルのカラス」の問題を考えてみると、我々は「カラスとは黒いものである」という当たり前の仮説さえも真偽を証明することができないことがわかる。

「カラスとは黒いものである」というのは、「一羽の黒い烏を見た」ということによって証明されるものではない。たとえあるカラスが黒くても、他のカラスは赤く、また別のカラスは青く、といった状態であれば「烏は黒いものとは限らない」。つまり「カラスとは黒いものである」とは「すべてのカラスは黒い」という主張をしているにほかならないのだ。…

全称性を持った仮説を反証するのは簡単である。たった一羽黒くないカラスを連れてくれば、「すべてのカラスが黒いとは限らない」ということは証明できたことになる。だが、「すべてのカラスが黒い」ことを証明しようとする側はたいへんである。いくら大量に黒いカラスを連れてきても、ぼんやり者たちは「それがすべてのカラスとは限らない」「ほかに黒くないカラスがいないという証拠にはならない」といくらでも反論し続けることができるのだ。

こうして厳密に考えると、我々はカラスが黒いか白いかも主張できない。…

ただし、それは我々が統計的仮説検定を知らなければ、の話だ*1

哲学に対する悪意を感じないでもないが、それより問題なのはこの説明がヘンペルのカラスとは全然関係ないことだと思う。ヘンペルのパズルは「すべてのカラスは黒い」という全称文を証明することではなく、確証confirmすることに関わるのだが…。

パズルの前提は3つある。

  1. ニコの規準:Fa & Gaは∀x(Fx→Gx)を確証する。
  2. ∀x(Fx→Gx)と∀x(¬Gx→¬Fx)は論理的に同値である。
  3. 文sが文tを確証するなら、sはtと論理的に同値なt'も確証する。

「すべてのカラスは黒い」と「すべての黒くないものはカラスでない」は論理的に同値だとしよう(前提2)。私が今はいている白い靴下を「a」とすると「aは黒くなくてカラスでもない」は「すべての黒くないものはカラスでない」を確証する(前提1)。すると、「aは黒くなくてカラスでもない」は「すべてのカラスは黒い」を確証するだろう(前提1)。しかし、カラスを観察することなく、部屋のなかにいるだけで「すべてのカラスは黒い」を確証するというのは変だ、と。

可能性は4つある。ニコの規準を捨てるか、対偶が論理的に同値でないという非古典論理を採用するか、確証関係は論理的同値よりもきめ細かい内容を要求すると考えるか、それとも白い靴下の観察でさえ「すべてのカラスは黒い」を(ほんのわずかだが)確証するという結論を受け入れるか、の4つ。

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*1:西内『統計学は最強の学問である[実践編」』p.114f

岸辺のアルバム

昔のTBSドラマ「岸辺のアルバム」をYouTubeで見つけたので見てしまった。多摩川沿いの一軒家で一見幸せそうに暮らす普通の家庭だが、母親は不倫、姉は堕胎、父親は会社の仕事で人身売買、という惨状に高校生の息子が悩む、という話らしい、ということは前に聞いたことがあったが、まあたしかにそういう話だった。

個人的に特に面白かったのは、八千草薫演じる母親が不倫に走るまでを描いた最初の5話くらいまでだったが、それでも最後まで一気見できるくらいには面白かった。母親の不倫は最初、いたずら電話から始まるのだが、脚本が本当に上手い。相手の男(竹脇無我)が、ちょっとの時間でいいからお話をしましょう、と心の隙を突くような形で誘惑するのだが、視聴者まで催眠術にかけられているような気分になってくる。

さて、「岸辺のアルバム」は自分が生まれるよりもだいぶ前の作品なので、この作品のことを知ったのは大人になってからである。たしか宮台真司の本からだったと記憶している(『まぼろしの郊外』)。宮台によれば、「岸辺のアルバム」は過渡期の作品なのだという。母親の不倫やら姉の堕胎なんかで悩み、いらつく息子というのは当時だからありえた話で、いまならもっとサバサバしているのでは、という書きぶりだったと思う。全面的に賛成はしないがまあ分かる。

以前、新聞の投書で母親の不倫について悩み相談した高校生に対して、上野千鶴子が批判的コメントを返したのが話題になったことがあったが、

賛否両論いろいろな反応があったなかで、「岸辺のアルバム」を引き合いにだして賛成している人が見受けられた。たしかに、このドラマのような状況だったら、むしろ母親を応援したくもなるし、母親の邪魔をしようとする息子(国広富之)がうざったく見える。ただ、今の時代にこのドラマのような家庭が典型例といえるどうかは疑問だが。

↓は別の記事に対するコメントだけれども、私の意見はこれに近い。

民主主義科学者協会

近代科学は、つとにカッシラーが見抜いたようにプラトン的「理性論」の正嫡子なのであって、それをしもベーコンだの実験だのに帰そうとするミンカが、いまだに文部省官許の教科書にたむろしているのは悲劇とさえ言うのもおろかしい。(大庭健『はじめての分析哲学』p.308n9)

この本を読んだのはまだ学生のときで、「ミンカ」というのが何なのかまったく分からなかった。しかし、近頃話題になっている日本学術会議について調べていたら、「民主主義科学者協会」という組織の略称が「民科」であることを知り、これのことを言っていたのか、と今更ながら合点がいった。

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サピア=ウォーフ説

サピア=ウォーフ説、つまり、いわゆる言語決定論は、ヘロドトスギリシャ人とエジプト人の思考様式の違いを言語の違いに求めたのが最初だという話があるらしい*1。まったく聞いたことがなかったので、調べてみた。

ネットで適当に検索しまくったところ、次の文献がヘロドトスについて言及しているのが分かった。

冒頭から引用する。

Herodotus (who suspected that Egyptian behavior was often opposite to Greek behavior because Egyptians wrote from right to left whereas Greeks, by then, wrote from left to right)

これだけで、『歴史』のどの箇所を参照しているのかわからなかった。が、頑張って調べたら、次の箇所が関連してそうだと気づいた。

ギリシア人は文字を書いたり計算をする時、手を左から右へ運んでするが、エジプト人は右から左へする。それでいながらエジプト人は、自分たちが右向きに書き、ギリシア人は左向きに書くのだといっている。*2

しかし、文字を書く方向が逆であるがゆえに、思考様式が逆だ、とは書かれていないように思った。私が見落としたのだろうか。しかし、いちおう少し前から読んでみると、35節に

エジプト人はこの国独特の風土と他の河川と性格を異にする河とに相応じたかのごとく、ほとんどあらゆる点で他民族と正反対の風俗習慣をもつようになった*3

と書かれており、ここからしばらく、エジプトとギリシアで正反対になっている風俗習慣が羅列されていく。文字を書く方向の違いはその一環として語られている。

*1:橋元『メディアと日本人』p.189

*2:『歴史』2巻36節、岩波文庫上巻p.212

*3:岩波文庫上巻p.210

マット・リドレー『進化は万能である』

マット・リドレーの『進化は万能である』を読んだ。彼の本はまえに『徳の起源』を読んだことがあるが、翻訳のせいなのか読みづらくてよい印象がなかった。それと比べると、今回読んだ本はずっと読みやすい。ただ、多種多様な話題をあつかってるため、一章ごとの内容は割と薄い。

公的資金をもとにした科学研究に対する懐疑的な論調(7章)とか、公教育に対する懐疑的な論調(10章)とかを見ると、著者はリバタリアニズムにシンパシーがありそうな気がする…。なお、12章の注で、最近リバタリアンの間で再評価の進んでいるスペンサーが擁護されている*1

一番違和感があったのは人口問題を扱っている11章の後半。壮大な悲観論を展開したローマクラブなどに対する批判には同意するが、もう出生率が十分下がっているかのような書き方はどうだろう。人口置換水準の2.0を大きく上回る国は途上国にまだまだたくさんあるのだし。あと、人口爆発への答えは、強制不妊や乳幼児の高い死亡率を維持することではなくむしろ赤ん坊を生かし続けるのがよい、そうすれば人々は家族を少なく維持するように計画することだ、とあるが、それは一つの要因になるとは思うけど、もっと出生率を下げるには女子教育が重要だと思う。

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*1:この注でスペンサーを貶めた政治学者として「ダグラス・ホフスタッター」という名前が出てくるが、「リチャード・ホフスタッター」の間違いだと思う。