Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

英文読解の参考書

英文読解のスキルがなかなか向上しないので、基本に立ち戻るつもりで久しぶりに参考書を手に取ってみた。いい感じの本を二冊ほど紹介してみる。

一つめ。

越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文 決定版

越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文 決定版

  • 作者:越前 敏弥
  • 発売日: 2019/08/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

「英語自慢の鼻をへし折る」という帯文をつけるだけあって、さっと訳しづらいいやらしい例文がたくさん載ってる。いや、別に私は別に英語自慢でも何でもないのだけど、amazonのレビューを見ると結構英語が得意な人でも結構間違うみたいなので少し安心する。

二つ目。 

英文標準問題精講

英文標準問題精講

 

大学入試用の問題集なので、ご存じの人も多いかも。私はあまり記憶にないのだけど、高校生の頃に手に取った気がしなくもない。でも、当時の英語力では歯ごたえがありすぎてまともに取り組めなかったのではないかな。たぶん私だけの問題ではなく、高校生には敷居の高い本だと思う。取り上げられているのは、バートランド・ラッセルのエッセイ(『怠惰への讃歌』など)を筆頭に古典的な作家の文章ばかり。古めかしかったり、お説教めいているものも多いが全体的に味わい深いので、その辺を楽しむ心の余裕が必要。

クリプキ再訪

大澤はさまざまな箇所でクリプキの固有名論を魔改造して提示している。

例えば、木田元にしたがって事実存在と本質存在の差異を「xがある」と「xである」の違いとしてとらえた上で、「存在論的差異というと深遠にきこえるが、分析哲学でいえば固有名の反記述主義と並行的な関係にある」と言う*1。大澤によれば、「これは夏目漱石である」という指示は「これ」と指示された個体の性質を記述するものではない。それはただ、「夏目漱石」と名付けられた「これ」が存在していることのみを、「これ」の事実存在を指し示している。固有名と記述の間に代替可能性がないことは、事実存在が本質存在に還元できないことを含意する。

ハイデガーのことはよく分からないが、しかし、事実存在と本質存在の区別が「がある」と「である」の区別に相当するなら、それと並行的なのは反記述主義より、むしろ存在はレアールな述語じゃない(カント)とか、存在は二階の述語だ(フレーゲ)という話の方だと思う。記述主義はフレーゲラッセル的見解とクリプキの本では言われるように、二つは別の話ではないか。あと、固有名って指示対象を欠くこともあるような。

反記述主義に関するコメントも首をかしげるものが多い。

クリプキのこの論考[『名指しと必然性』]があらがいようのない緻密さにおいて論証したことは、名前は何も意味しないということである。*2

名前が指示しているのは、あらゆる可能世界を貫通する同一性、つまり必然性である。*3

 名前(固有名)が記述の束の省略ではないという主張から、名前は何も意味しないという主張は出てこないと思う。例えば、名前の意味は指示対象に尽きるという見解とも両立する。そして、名前が(たいていの)記述と違って固定的であるということの意味は、名前はどの世界でも同じ対象を指示するということ。

*1:ナショナリズムの由来』p.722, cf. 『不気味なものの政治学』p.20f, 40f

*2:『自由の条件』p.58

*3:『自由の条件』p.60

マシュー・パリス

ソクラテスは書かぬ人だったが、弟子のプラトンソクラテスのアイデアを(どこまで忠実かは分からないが)対話篇の形で後世に残した。…という通説に反した中世の絵がある。どういうわけか、プラトンが後ろに立ってソクラテスに本を書かせている絵になっている。

 

この絵は、ジャック・デリダが『葉書』で取り上げたことでとても有名になった。オクスフォード大学のボドリアン図書館でたまたま見つけたものだという*1デリダはこの絵に意味深なものを感じとり、深読みをしていくわけだが、実際には何かの手違いでこんな絵が描かれてしまったのだろう(そんな可能性にはデリダも十分気づいているだろうが)。

この絵の作者はマシュー・パリスという12世紀の修道士だそうだ*2ラテン語読みだと、パリのマッタエウス。名前に反して、パリとはあまり関係のない人みたいだけど…。

山内志朗『普遍論争』付録の事典には載っていなかったので、『新カトリック大事典』を調べたところ、次のように説明されていた。

マシュー・パリス Matthew Paris(1200頃-1259)

イギリスの年代記作家、修道士。1217年ロンドン近郊セント・オールバンズ(Saint Albans)のベネディクト会修道院に入る。聖人伝の編纂にあたり、ウェンドーヴァのロジャー(Roger of Wendover, ?-1236)の助手をしながら年代記作家としての修行を積む。一時ノルウェーに行くが、帰国後『大年代記』(Chronica maiora)、『英国史』(Historia Anglorum)などを書き、自ら彩色装飾も施す。彼の著作には、実地の見聞に基づく一次資料が豊富に用いられてはいるが、政治的洞察力や思想的洗練とは無縁だった。

最後の一文はなんか辛らつだなぁ…。

どのような名前で呼ばれようとバラはバラ

What's in a name? That which we call a rose

by any other name would smell as sweet

(名前がなんだというの?バラと呼ばれるあの花は

ほかの名前で呼ぼうとも甘い香りは変わらない)

ジュリエットはロミオに「モンタギュー」という名前は重要じゃないから捨ててくれ、という。

この「どのような名前で呼ばれようとバラはバラ」という詩的なフレーズは、言語哲学では(外延的な文脈における)単称名の交換可能性をあらわす原則を表現するためによく使われる*1。二つの単称名a, bがもし同じ対象を指示するのなら、別個のイミ(Bedeutung)を用意する必要はない。なぜなら、文中のaをbに置き換えても、文全体の真理値は変わらないのだから、指示対象以上にきめ細かなものをイミとして措定する理由はない。単称名のこういう特徴を「シェークスピア性」と最初に言ったのはピーター・ギーチらしい。

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*1:飯田隆言語哲学大全I』p.111, 大澤『恋愛の不可能性について』(ちくま学芸文庫)p.76, 287n8

不文の教説

古代の哲学者に関する記録はあまり残っていないわけだが、彼らは文書に書き留めたり公の場で発言するといった仕方で明示的に発表した教義のほかに、親しいごく少数の人々の間でのみ秘密の教義を共有していた、という伝説もある。

この種の伝説は近世に入っても信じられていたようで、例えば、ジョン・ロックは晩年の著作『キリスト教の合理性』で、ソクラテスが処刑された理由を次のように推測している(岩波文庫版p.312f)。

人類の中の理性的で、ものを考える人たちが、…一人の、至上で、不可視の紙を発見したことはたしかである。しかし、彼らがその神を認め、崇拝した場合でも、それはただ彼ら自身の心の中だけでそうしたにすぎなかった。そうした人々は、その発見した真理を秘めごととして自分の胸のうちにしまい込んで、あえて人々にそれを公表することは…しなかったのである。

[中略]

人類の中で、アテナイ人以上に、優れた資質を持ち、あるいはその資質をより陶冶して、偉大な理性の光を手にし、また、さらにあらゆる種類の思索においてその理性に従った人々はいなかった。しかし、そのアテナイ人の中にあって、ただ一人、ソクラテスだけが、彼らの多神教と神に関する臆見とに反対し、それを嘲笑したが、われわれは、そのために彼が彼らによってどのように報復されたか知っている。また、たとえプラトンや哲学者のうちでもっとも分別のある人々が、単一の神の本質と存在とについてどのように考えていたとしても、彼らは、外面的な信仰告白と礼拝とにおいては、進んで民衆と歩みをともにし、法によって定められた宗教を守った

実際には、おそらくソクラテスが処刑された理由はもっと政治的なものだろうと思われるが…。

プラトンは古代の哲学者としては例外的に大半の著作が残っている人物だが、彼の著作の大部分はソクラテスを主人公とする対話篇で、プラトン自身はほとんど姿を現さない。プラトン自身の見解だと明示的に断定できる箇所を見出すのは難しいわけだが、アリストテレスの報告するところによれば、プラトンには彼の学園であるアカデメイアの中だけで共有されていた不文の教義(unwritten doctrine)があった(『自然学』209b)。いったいどんな教説だったのかは、そもそもそんな教義があったのかという点も含めて、謎である。

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サイリス

英国観念論の哲学者として有名なジョージ・バークリーは、晩年、タール水なるものを世の中に広めようとした。タール水とは、松材を乾留してとるタールと水からつくられる水溶液で、アメリカの民間療法によれば、ほとんどすべての病に効くという。多少の殺菌作用があるらしいが、いまでは使われていない*1

バークリーはどういうわけか、タール水に夢中になり、『サイリス』という著作でタール水の効用を哲学的に擁護しようとしたらしい。ちなみに、題名のSirisはナイル川の別名であり、ギリシャ語では連鎖を意味する。「タール水の効能は、ナイル川のように秘密の隠された源から流れ出し、無数の水路へと分岐して、いたるところに健康と安らぎをもたらす」*2

私はこのマイナーな著作を、藤沢『プラトンの哲学』で引用されている文章から知った。藤沢によると、バークリーはプラトンイデア論について次のように書いた。

アリストテレスとその徒たちは、プラトンイデアを奇怪な仕方で表示したし、またプラトン自身の学派にも、イデアについてきわめて奇妙なことを語った人たちがいる。しかし、もしかの哲学者(プラトン)が、ただ読まれるだけでなく注意深く研究されるならば、そしてプラトンが彼自身の解釈者とされるならば、私は信じる、いま彼に向けられている偏見はすぐにもなくなってしまうだろうと。p.18

バークリーがここまでプラトンを賞賛しているというのは、かなり意外な気がする。

*1:ウォーバートン『若い読者のための哲学史』p.110f

*2:冨田『観念論の教室』p.41f

傍観者効果

帰宅途中に、道端で倒れている人を見かけた。すでに周囲にいたひとが声をかけて介抱していたのでそのまま通り過ぎてしまったのだが、そのとき私の中で、心理学で学んだ傍観者効果の話を連想した。困った人がいるとき、周囲に人が多くいるほど誰も助けない、というあの話だ。

周囲に人がいるほど責任感が拡散してしまうのだろうというのは理解しやすい。しかし、困った人の立場からすれば、べつにみんなに助けてもらう必要はなくて、誰かひとりにさえ助けてもらえればよい、ということが多いだろう。そうすると、周囲にいる人が多いほど、一人一人がその人を助ける確率は下がるとしても、人数が多くなればその効果は相殺されそうな気もしてくる。傍観者効果のはなしが教えてくれるのは、そんな風な相殺は起きない、ということだ*1

適当に数学的なモデルを考えてみる。周囲にいる人がn人のとき、各人が困った人を助けない確率は、p(n) という関数で一様に表せるとする。p(n) は増加関数で、定義域は1以上、値域は(0, 1) 区間。すると、周囲にn人いるときに誰も助けない確率は、p(n) のn乗で表せる。さて、傍観者効果の話の教訓は、p(n) のn乗もnが(ある程度大きければ)増加関数となり、1に収束する、ということだと思われる。例えば、p(n) = n/(n+1) としよう。この関数は n → ∞で1に収束する。んで、p(n) のn乗は、n = 1 で1/2, n = 2で4/9, n = 3で9/16, n = 4で16/25・・・という具合になる。つまり、二人のときに最小となり、そのあとは増加していくのだろう。かなしいなぁ。

*1:アイゼンク『マインド・ウオッチング』p.31