Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

タブラ・ラサに関するメモ

そこで、こころというものは、いわばなんの刻印もなく、どのような観念ももっていない白紙である、と想定しよう。 

この有名な一文は、ロック『人間知性論』2巻1章2節にある。ロックは「白紙white paper」と書いている。熊野純彦によると*1

ラテン語で「白板tabula rasa」と呼び変えたのは、ライプニッツである(『人間知性新論』「序文」ほか)。 

ただし、邦訳の『人間知性論』1巻解説(p.317)によると、このラテン語表現はガッサンディも用いていたし、ロック自身も『知性論』の二つの草稿で用いていて*2、当時の知識人にとってはおなじみの用語だったようだ。

おなじみの用語であるからには、中世あるいはひょっとすると古代にまで遡るような伝統をもつ概念を指している可能性が高い。再び、熊野純彦によると

ストアの認識観は、一般的にいって経験論的な色彩の強いものであった。「ストアのひとびとの語るところによれば、人間は生まれたとき、たましいの主導的な部分を書きこみのためによく整えられた白紙として所有しており、個々の観念をここにみずからひとつひとつ書きこむという」(『断片集』第2巻、断片83-白紙という比喩は、一方ではおそらくアリストテレスに由来する(『デ・アニマ』第3巻第4章)。他方それは、いくつかの屈折を経て、イギリス経験論の雄、ロックによる「白紙」の比喩にまで流れ込んでゆくことになる*3 

「いくつかの屈折を経て」の内実は、英語版のwikipedia

が割と詳しく書いてる。

白紙・白板の比喩がアリストテレスまで遡れるということは、アリストテレスとロックが心というものを全く同じように考えていたということを意味しない。古代・中世の哲学で白紙・白板になぞらえられているのは受動知性(可能知性)であって、知性には能動知性という別の側面もあるとされる。坂部恵の整理によると、知性intellectusの概念から能動知性を落として受動知性へと切り詰めたことが、ロック的な知性understandingの概念につながった、とのことだ*4

受動知性は、経験から獲得した概念や知識の貯蔵庫のようなものとしてイメージしておけばよさそう。生まれた時点では何も貯蔵されてないから、白紙・白板ということなのだろう。なお、現代の心理学では「記憶」にも色々な種類があるとされるが、ここでいう知性と関係する記憶は「意味記憶semantic memory」とか呼ばれてる。他方、海辺に連れて行ってもらったことを覚えているといった過去の記憶(エピソード記憶)は、知性ではなく想像力の働きと関連づけられる。

受動知性と比べて、能動知性の概念は分かりづらい。物体を見るために必要な光に喩えられることが多いが、大まかには、感覚経験から抽象的情報を獲得するために人間が持っている能力、という風に理解しておく。「人間が持ってる能力」というところがミソである。ほかの動物は感覚能力に関して人間と同等だが知性を欠くので、物質的対象について抽象的思考をめぐらしたり、知識を獲得することができないとされる。

能動知性は言語をマスターする能力と密接な関係にあるので、アンソニー・ケニーはこれをチョムスキーの生得的な言語獲得能力と比較している*5。子供が言語断片から驚異的な速さで文法を獲得することは、何か特異な能力を仮定しなければ説明がつかない。それと似て、自然界の質料的条件から概念を抽象するための能力は感覚能力とは別個の能力を仮定しないと説明がつかない、これら能力はどちらも人間という種に特有である、といったところだろうか。

*1:『西洋哲学史 近代から現代へ』p.40

*2:ロック自身は"rasa tabula"と書いたらしいが。

*3:『西洋哲学史 古代から中世へ』p.123

*4:『ヨーロッパ精神史入門』p.87

*5:トマス・アクィナス心の哲学』4章