半年くらい前に、山形浩生が訳したThe Economist誌のチョムスキーに関する記事を読んだ。
極小プログラムとか全然知らない門外漢だけど、この紹介[特に前半]はやっぱりアンフェアではなかろうか。まるで、我々の言語能力の中核をなすのは併合の操作だけであるかのように書かれていて、移動の操作には触れられていない。人工言語と違って自然言語には移動という現象があるという点で特異であり、なんでそんなことになっているのかを説明したくてたまらない、というのが生成文法の理論家のguiding ideaなのではないか、と素人の私は勝手に思っている*1。
あと、この記事でリンクが貼ってある『生成文法の企て』に対する書評と、それに対するfinalventという人の批判記事にも軽く目を通した。批判記事というのは以下。
かなり辛辣な文体だと思うのだが、批判された山形氏の方は、何が悪かったのか全然分からない、というようなことを書いている。つまり、話がかみ合っていないわけだ。
最初に、山形氏が「言語器官」という表現を使ったことに対し、チョムスキーは「心的器官」と言うことはあるが、「言語器官」と言うことはあっただろうか、とある。個人的には、これはつまらない揚げ足取りだと思う*2。とはいえ
人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは? その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。とすればその器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになるだろう。
という文章がいかにも「分かってなさそう」であることは否定できない。一番マズそうなのは「変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)」という表現だろうか。でも、「変形」と言ってるからといって、D構造がなんたらとか書いているのは、悪意を感じる。山形氏がここでどういうアイデアを紹介しようとしているのかは、チャリティを働かせれば理解できるのではなかろうか。たぶん、原理・パラメータのアプローチの話を紹介したいんでしょ[違うかもしれないけど]。原理の知識をもった初期状態があって、言語的刺激がトリガーとなって、最終的に特定の自然言語の文法の知識をもった状態になる。言語的刺激から帰納的に自然言語の文法規則を推論するのではなくて、言語的刺激はパラメータの値をバシバシ決めていくようなものだ、とか。マーク・ベイカーの本とか読むと、そんな感じのアイデアがもっと丁寧に紹介されてる。