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Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

100分de名著「永遠平和のために」

哲学 ポストモダン

この番組、興味のある本が取り上げられたときは視聴するようにしている。8月はカント「永遠平和のために」が取り上げられてるので、哲学の徒として一応観た。講師は気鋭の論客・萱野稔人氏。

この番組は25分×4回 = 100分という構成になっている。第1回目でさっそく、デリダはカントの「永遠平和のために」を典拠にして移民を歓待しようとか言ってるけどカントそんなこと言ってないから、と一蹴。フランス帰りの人がフランス現代思想の大御所を叩いているというのがポイント高い。1145141919点をあげよう。まぁ、このデリダ批判がどのくらいフェアなのかは知らないけど。

twitterを見たところ、分かりやすかったという好意的な声が多そうだ。しかし、個人的にしっくりこなかった箇所がとりあえず二点あった。

嘘をついてはいけない

定言命法は「カテゴリカル」というからには無条件に、どんな場面であってもそれは守らなければならない。「嘘をついてはいけない」も無条件に守られねばならないので、例えば、夫からのDVに耐えかねて家を飛び出した女性をかくまったら、しばらくして夫が尋ねてきて妻の居場所を聞かれたら、正直に答えないといけない。善意によって嘘をついてもよさそうだが、それは駄目なのだ、と。少なくとも第1回で萱野氏はそう言っていたと思う。

しかし4回目で再びこの話題に戻ってきたところでは、道徳とは無条件に従われるべきもの、という形式的な特徴づけから出発するのがカント哲学であり、内容から出発するのではない。形式から出発するなら、必ずしも「嘘をついてはいけない」という道徳規則が出てくるわけではない、と言われていた。うーん、すると結局「嘘をついてはいけない」は普遍化可能ではなく、そんな道徳規則はないと萱野氏じしんは考えているんだろうか。あるいは、カント解釈としてそれでいいと考えているんだろうか。

この話題について私はあまり考えたことがないのだが、マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』では、もう少し凝った議論がなされていたと思う。サンデルは「嘘をついてはいけない」は例外なく守らねばならない規則として認めた上で、DVのようなケースに直面しても抜け道を探すような方法を提案する。すなわち、真っ赤な嘘をつくことと*1、相手を誤解させるようなことを言うことを明確に区別し、前者は道徳的に許されないが後者は許される、とする。戸をたたいてきた夫に対しては「一時間前にスーパーで見かけました」と言うとか、話題をうまく擦り替えて切り抜けるのだ。このとき、自分が信じていないことを主張するという意味での嘘はついていない。自分が信じていることを言っているが、相手が勝手にミスリードされるだけ。まぁ、サンデルはクリントンの例(セックスはしていない、オーラルセックスは定義上セックスではないから)とかも引いて、ミスリードさせるのも道徳的に微妙かもね、という余地を残しているけど。

パイを公平に分ける

第4回では、強欲な悪魔たちであっても争いごとを起こさずにケーキを切り分けることができる、という話がなされた。ケーキを切る悪魔がみんなの前でケーキを等分し、自分は一番最後にケーキを取る、というルールを設ければ公平に分けられる、そしてこういう形式的なルールは外から押し付けられなくても、全員が自発的に同意できはずだ、と言われる。

この話はどうも納得できなかったが、少し考えてみて、ここでいう悪魔には幾何学的な意味でケーキの体積を等分にできる能力があるという仮定をおけば、その方法でも公平に分けられるのか、と思った。そんな能力をもたない人間の場合、例えば、三人のうち一人が三等分して一番最後に取る、というルールを設けても、じゃあ残った二人のどちらが先にケーキをとるのかが問題になってしまうと思われる。完璧に等分できる悪魔だからこそ、残りの悪魔たちも文句をいわず同じ大きさのケーキをひとつ取ることができる。もしこの理解でいいのだとすれば、悪魔という設定は強欲さを強調するためではなく、人間にはおよそ不可能な切り分け能力を帰属するためのものではないか、と考えてしまう。でも萱野先生たぶんそんなこと考えてないよね。

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*1:「ガイア幻想記」でカレンが兵士に嘘をつくときに、フォントが真っ赤になるという演出があったのをまねてみた。