Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

普遍論争

普遍論争 近代の源流としての

普遍論争 近代の源流としての

 

 だいぶ前に買って読もうとしたのだけど途中で挫折した本なのだが、今ならいけるかなと思って1章を少し読んでみた。まぁ割と理解できたかな、という感触は得られたのだが、率直に言って分かりづらい文章だと思う。語り口が平易なだけで、ミスリーディングな箇所がたくさんあるという印象。著者が言っていることを整合的に理解するためには、読者が頭の中で補うべき情報が多すぎる。例えばですね…。

ここでは「複数のものの述語となるもの」という定義を挙げておきましょう。例えば、「人間」というのはソクラテスにもプラトンにもアリストテレスにも無差別に述語となるものですが、この場合の「人間」が普遍となるわけです。…実は、「人間性」とか「猫性」というのは抽象名であって普遍ではありません。p.20 

この箇所は「人間」という名辞が普遍であり、抽象名「人間性」は普遍ではないと言っていると思われる。

しかし、この後を読み進めると、普遍にはいくつかの種類があると言われ、しかも「複数のものの述語となるもの」というこの定義は、どの種類の普遍にも当てはまるような一般性をまるでもっていないことが分かる。pp.79-82のリストをみると、「複数のものの述語となるもの」という定義は、論理学的普遍とか現実的普遍とか事物の後の普遍と呼ばれるものにしか対応していない。

それでは、普遍にはいくつかの種類があるとしても、「複数のものの述語となるもの」と定義される普遍が一番重要だから最初に取り上げたのかな、と推測したくなる。これはたぶん yes and no なのだろう。yes なのは、これこそが本来の意味での普遍だからである。

「パウロは人間である、ペテロは人間である」という場合の「人間」が本来的な意味での普遍ですし、「現実的普遍」と言われます。それに対して、パウロの中にある「人間性」は普遍のように見えますが*1、実は本来的な意味での普遍ではなく、非本来的な意味での普遍、換言すれば「可能態における普遍」でしかないのです。p.66

no である理由は、

この普遍を認めるかどうかは普遍論争では問題とされません。この意味での普遍はどの立場でも普遍として認められたものです。p.82 

だからである。

じゃあ、もっと論争の余地のある意味での普遍とは何なのか、と考えると、それは「可能態における普遍」だと言われる。こんなのを普遍と認めていいのか、そんなものが存在するのか、というのが普遍論争の焦点となる話題なのだ、と(p.81f)。お前冒頭(p.20)で「人間性」は普遍じゃないって断言してただろ、と思ったのは私だけだろうか。それとも、こう考えてしまうのは私の読みが浅いからなのだろうか。冒頭で普遍じゃないと断言していたのは抽象名「人間性」であって、抽象名「人間性」に対応するもののことではない、とか?

*1:細かいことだが、「人間性」という抽象名がパウロの中にあるとは思えないので、カギカッコを付ける理由が分からない。