Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

沙也可

沙也可(さやか)は、文禄・慶長の役の際に、加藤清正の配下として朝鮮に渡ったが、投降して朝鮮軍に加ったとされる人物のこと。日本ではこの人物に関する記録は残っておらず、朝鮮側の資料に依存している。つまり、この人物の素性についてはよく分からんということである(ぇ)。

例えば、朝鮮に火縄銃の技術を伝えたとされているのだが、Wikipediaによると、

沙也可に関する一連の伝承は信憑性が薄いとされている。仮に、加藤清正勢1万人にあって、3000人もの直属の兵を率いるとなると加藤清正の所領20~25万石のうち6万石(100石あたり5人の軍役が標準的であった)相当の禄高を有する有力家臣がいたことになるが、そのような地位に在った人物が上陸からわずか1週間後に寝返ったというのはあまりにも現実離れしている。そして朝鮮軍に鉄砲を伝え日本軍と戦ったにもかかわらず、その後も朝鮮軍は安易に鉄砲隊の前に出て一斉射撃を浴びて壊滅させられたりしており、鉄砲術が伝わっていたにしては鉄砲隊への十分な対処が出来ていない

とはいえ、沙也可という人物が少なくとも実在したことだけは確かだそうである。そのため、歴史家たちは沙也可の素性について色々な推測をしている。雑賀説はその一つ。

1971年(昭和46年)に小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく2 韓のくに紀行』で、沙也可が日本名「サエモン」の音訳、あるいは「サイカ(雑賀)」のことではないかと推理した。

うーん、『韓のくに紀行』をちょっと調べてみたのだが、司馬遼太郎そんなこと言っているのかな。彼は、筆記するときに「門」が「可」と間違えられた可能性を指摘している(p.120)。また、雑賀との結びつきは指摘しておらず、むしろ沙也可は対馬の出身者なのではないかと推測している(pp.144-147)。対馬の出身なら儒教文化に対する理解があっても不思議ではないし、また、対馬は朝鮮と日本の板挟みになっていて文禄・慶長の役のときにはつらい立場にあったとか、そういう状況証拠がある、と。しかし、この対馬説はwikipediaには載ってない…。支持者はいないということだろうか。 

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

街道をゆく (2) (朝日文芸文庫)

 

どうでもいいけど、個人的にはこの『韓のくに紀行』は小室直樹の『韓国の悲劇』と並んで嫌韓に対する解毒剤として良かった。どっちも朝鮮に対してずいぶんと好意的。小室は「5000年の韓国固有の歴史」(p.99)とか言ってるし。嫌韓じゃないけどこれは受け入れられない表現だわ。