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Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

ヒース&ポター『反逆の神話』

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 

読書ノートとして要約を作ってみる。

序章

マトリックス』は認識論的な懐疑論を問題にしているわけではない。映画の冒頭でボードリヤールの著書が映し出される。これがヒントだ。人間はイデオロギーの世界に、つまり人間の本質から完全に阻害された世界に生きている、というメッセージだ。p.10f

1960年代のベビーブーマー世代は、体制への抵抗を宣言した。赤狩り時代の規律と画一性をはねつけ、個人の自由に基づく新しい世界をつくるのだ、と。しかし、このプロジェクトは大した成果を残していない。

本書はカウンターカルチャーの理論は間違っており、だからこそ反逆は何の変革ももたらさなかったと主張する。カウンターカルチャーの理論によれば、体制は個人を抑圧することで秩序を達成する。快楽は元来無秩序で奔放なので、体制は労働者を管理するために規律化する。大量生産した欲望を植え付け、産業支配の秩序のなかで満たすことが必要だ、と考える。カウンターカルチャーの理論は、ただ単に楽しむことが究極の体制転覆的な破壊活動だとみなす。pp.12-14

1章

ラディカルな政治思想の土台として、社会主義にとってかわったカウンターカルチャーの理論のルーツは、18世紀以降のロマン主義にある。初期のロマン主義は、太平洋諸島の発見がヨーロッパ人に与えた衝撃をみると理解できる。それまでのヨーロッパ人は、人類は有史以来ずっと階級制度に秩序付けられた社会に生きてきたと思っていた(例:13世紀のトマス・アクィナス)。しかし、新世界の発見により、社会的階層や土地所有のない世界があることが分かったのである。ルソーは階級社会は巨大なイカサマだと考えた。p.23f

もっとも、ルソーは社会全体を敵だと考えたわけではない。彼は具体的な階級である貴族を敵視したのであって、一般大衆を自然な盟友だとみなした。19世紀のアナーキストたちも現代的な意味での真のアナーキストではない。バクーニンは、国家を倒したかったわけではなく、連邦主義や男女平等の普通選挙権などを求めただけだ。p.25

20世紀のカウンターカルチャー理論のヤバさは、大衆を敵に回すことをいとわないところにある。なぜそんなことになったのか。鍵はマルクス主義にある。p.26

18世紀のブルジョワ革命によって、貴族の特権はしだいに排除されていった。しかし、階級支配がなくなったわけではなく、資本家が貴族の代わりに支配階級になり替わったのだった。資本主義は労働者に搾取と苦難をもたらした。ところが、革命的な社会主義者が工場をのっとるように主張しても労働者はそれをいやがった。なぜだろう。p.27

ここでマルクスイデオロギー批判が登場する。労働者にとって、経済システムは自然法則のごとき客観性をもっているように見える。価格と賃金は勝手に上げ下げするのでコントロールできない。失業は嵐に見舞われるのと同じような不運にすぎない。パンの価格が上昇しても誰のせいでもない。マルクス主義者は、人々がこうした考え方をするのを改めさせて、自分たちの本当の利益がどこにあるのかを教えてやらなければならない。p.28

しかし、労働者たちは手ごわかった。革命によって資本主義を倒すことを支持する人々は少なかった。資本家を倒すよりは、賃上げや医療給付を求めた。普通選挙権が与えられても、人々は革命を起こさなかった。ソ連が誕生しても革命は起きなかった。p.29

大衆はひょっとすると資本主義が好きなのかもしれない。この結論を避けるため、グラムシ1920年代に、文化ヘゲモニーの理論を立てた。資本主義は文化を通じて人々に誤った意識を植え付けているのだ、と。文化全体がペテンなどということがありうるのだろうか、と思うかもしれない。しかし、グラムシの理論はファシズムの登場によって説得力を得ることになる。p.29f

群衆の中に投げ込まれると個人はまともな判断能力を失うということは以前から知られていた。ル・ボンの著書は人気があった。しかし、群集心理は一時的な狂気に過ぎないとも考えられていたのだった。これに対して、ナチスが作り出したのは極めて長期にわたる群集心理だった。どうしてそんなことが可能だったのか。答えはプロパガンダである。p.32

戦後のアメリカでは、共産主義による洗脳とかサブリミナル広告の恐怖が広まった。多くの人が現代の資本主義とファシズムにつながりを見出そうとした。p.34

左派の人々にとって、労働者に革命の機運がないのは、広告が消費主義をあおっているからだと思われた。宗教は死後の楽園を約束するが、広告はすぐそこに楽園があることを請けあう。p.35

ローザックは1969年の著書で、社会全体が操作のシステムになっていると主張した。機械と工場の秩序が、人間生活のあらゆる面を網羅している。無意識の衝動やテクノクラシーへの抗議は抑圧される。こんな状況では社会と文化をひっくり返すほかない。こうして、いまや貧困や医療の普及といった伝統的な左派の関心事は皮相的とされるにいたった。p.40

しかし、この思想は消費主義は労働者を満足させすぎていると言っているようにも聞こえる。労働者はお腹が一杯なので、もう体制を転覆させようとは思わないのだ。ローザックは想像力を解き放って、活力にあふれた余暇を重視するよう訴えている。しかし、そんな嗜好は知識人だけの嗜好ではないのか。彼らは自分たちの利害を一般大衆の興味と取り違えているのではないか。p.41f

ともあれ、ヒッピーたちは1950年代のドレスコードを破ることに熱心になり、想像力を解き放った。しかし、消費社会の方はというと、ヒッピーたちのファッションを新たなマーケットとみなしたのだった。カウンターカルチャーは体制の脅威などではなく、軽く受け流すことができた。p.42f

カウンターカルチャーの理論は、ここで取り込み理論を提示した。体制は反抗のシンボルから革命的意義をぬきとって商品化する。そうやって代償的な満足を大衆に与えるのだ。どれほど破壊的な芸術・文学・音楽・ファッションを世に送り出しても、体制は同化してしまう。

これは結局のところ、体制はさほど抑圧的ではないということではないのか?カウンターカルチャーの理論によればそうではない。体制の抑圧は寛容的なのである。p.44