Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

酒鬼薔薇事件

出先で、さっきの記事で紹介した本を空いた時間に読もうと思っていたのだが、期待外れだったので、書店で別の本を買うことにした。新書・文庫のコーナーをざっと見て、最近出版された、評判のよい次の本を購入。

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

 

どうでもいいけど、昔、世間を騒がせた酒鬼薔薇事件の犯人は、ダンテからの引用を含む謎めいた文章を書いていたことで話題になった。

酒鬼薔薇とおぼしき少年Aはめちゃくちゃ頭いいじゃない。[中略]成績こそ中くらいだったけれど、現在の学力水準でいっても国語の能力、歴史の能力は相当にあった。彼の書いた文章のなかには、ニーチェやダンテからの引用だってあった。彼は中三でしょ。僕も中三では読んでなかった*1

「僕も中三では読んでなかった」というのは、今は読んでいるという意味論的前提が入っているということなのだろうか。宮台先生まじパネェわー。

なお、酒鬼薔薇の書いた文章というのは以下。

  1. いつの世も・・・、同じ事の繰り返しである。止めようのないものはとめられぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある・・・「魔物」である。仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い防臭漂う心の独房の中死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、“何”が見えているのであろうか。俺には、おおよそ予測することすらままならない。「理解」に苦しまざるをえないのである。
  2. 魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る。それには、かって自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」を感じさせるのである。とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。こうして俺は追いつめられてゆく。「自分の中」に・・・しかし、敗北するわけではない。行き詰まりの打開は方策ではなく、心の改革が根本である。
  3. 大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔吻は、本当に普通な“彼”の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際、そのように振る舞う。彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう・・・ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみや、プラスチックで出来た桃の方が、実物は不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや挑はこういう風でなければならないと俺たちが思いこんでしまうように。
  4. 今まで生きてきた中で、“敵”とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」
  5. 魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているのである。「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、 俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。」

ニーチェとダンテからの引用は最後の節。前半は『善悪の彼岸』146節からの引用。後半は『神曲』の序歌からの引用。しかし、これは頭いい子の文章なのだろうか…。私にはよく分からない。

*1:宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』p.230