読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

池田信夫の大澤批判

<自由>の条件

<自由>の条件

先に取り上げた大澤真幸『自由の条件』について、だいぶ昔の記事だが池田信夫が割と好き勝手言っている。

これのコメント欄が読めないので、internet archiveを使ってみた。

 ケインズ理論の解説などは、金利マネーサプライを混同していたりして、大学1年生の答案でも落第だ。

これは次の箇所を念頭に置いているのだろうか。

中央銀行による金融政策(マネーサプライを増加させることで金利を下げ、投資を刺激すること) *1

 「混同」しているということは、逆にすればいいってことかしら。うーん、私の経済についての知識は中学生レベルなのだけど、買いオペでマネーサプライを増加させて市場金利を下げる、って道筋は変なのかなぁ。自信はないので、詳しい人に教えてほしい。

著者はケインズの有名な「美人投票」の比喩を「機会主義的な予期」とよぶのだが、これは間違いである。機会主義(日和見主義)とは、Wikipediaにも出ているように、たとえば契約を結んだ後で価格の引き下げを求めるような首尾一貫しない卑怯な行動のことである。著者はそれを投機一般と取り違え、さらに「他人との予想の一致」という共有知識と混同している

大澤が「機会主義」を誤用しているというのはなんとなく分かるけど、難詰するほどの誤用なのか私には判断できない。「投機」はこの本ではやや特殊な意味で使われているのではないかな。山形訳を使わせていただくと*2

市場の心理を予測する活動に、投機ということばをあてはめて、資産の寿命を通じた見込み総収益を予測する活動を事業と呼ぶことをお許しいただけるなら、常に投機が事業にまさるというわけでは決してありません。

あと、最後の共有知識うんぬんは、該当箇所を見つけられなかった。共有知識は、『自由の条件』ではさしあたり慣習とかと同一視されているのではないかな(p.143)。大澤は『性愛と資本主義』の冒頭で、共有知識というものが論理的にはいかに成立できないものなのかを論じているので、他人との予想の一致が共有知識だとは安易に言わないんじゃないかと思う。

ここまでは本文。以下はコメントにあったもの。

ハイエクについての記述もでたらめです。著者はハイエクに1章をさいて「個人主義自由主義」を批判するが、それはこんな調子です:

ハイエクにとっても、慣習や伝統自身は、自由な行為の、自由な競争の所産なのである。[・・・]だが、そうであるとすれば、議論は全体として循環を描いていることになる。慣習や伝統は、自由の条件であると同時に産物でもあることになるからだ>*3

具体的な出典も示さずに、こういう断定をするところにも、本書のずさんさがよく表れています。出典が示せないはずだ。ハイエクは一度もそんなことを述べていないからです。逆に彼は、こう指摘しています:
<合理的で自由な「経済人」の概念は、イギリスの進化論的伝統の一部ではない。[・・・]人間の本性は怠慢で不精で、先の見通しもなく浪費家で、環境によって強制されないと目的合理的には行動できないのだ>『自由の条件』原著p.61
つまり自由な経済人が慣習をつくるのではなく、集団的に継承されてきた伝統が人々を経済的に行動させるのです。

具体的な出典を示していないのは、たしかによろしくない。しかし、出典は示せると思う。Law, Legislation and Liberty, (1973) p.20 とか。ここでハイエクは、古代ギリシャ以来のピュシスとノモスという二分法が誤解を招きやすいと述べ、更に、人間の行為の所産と、人間のデザインの所産を明確に分ける。慣習などの自生的秩序は人間の行為の所産だとはっきり述べていることになる*4。したがって、大澤がここには何らかの意味で循環があると指摘するのは、そんなに変なことではないと思う。

訳のわからない「機会主義」についての議論に関連して、ウェーバーの『プロ倫』が出てきて、ありきたりな解釈が延々と繰り広げられます。しかし彼のカルヴィニズムについてのデータがアドホックで客観的な検証に耐えず

大澤もウェーバーの議論に実証的な批判があるのは十分に承知しているでしょう。単に、予期のタイプ分けをする際に、ウェーバーの議論を参照できると思っただけだと思う。「未だに、尽きることがなき示唆の源泉」(p.192)という言い方にそれが反映されている。まぁ、これは相当に好意的な読み方だけど。

ウェーバーの意図に関しても、「予定説」からストレートに近代社会が出てくるかのような「近代化論」的な解釈は誤りで、むしろ予定説の背後にはニーチェ的な自己破壊の契機があることを山之内靖氏などは指摘しています。この程度の文献的な検討も踏まえないで

どこで書いていたか忘れたけど、たしかウェーバーの憂鬱について大澤は論文書いていたと思う。なので、山之内の本も目は通しているはず。

こんな駄本に『自由の条件』などという不遜なタイトルをつけるのは、やめてほしいものです。

ハイエクの原著ってThe Constitution of Liberty だっけ。大澤は英訳するとしたら、どういう題にするんだろう。

読んでいて気分が悪くなる。

これに対しては、最近覚えたラテン語を使わせていただこう。"tu quoque!"

関連記事

*1:『自由の条件』p.195

*2:http://genpaku.org/generaltheory/generaltheoryj.pdf

*3:『自由の条件』p.143

*4:cf. 落合『保守主義の社会理論』3章1節