Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

体罰

少し前に、体罰が原因とみられる高校生の自殺が話題になった。たぶん今も問題になっている。スポーツにおける体罰がどの程度効果的なのかは、素人の私には全く分からないところだ。この番組(アベノミクスとスポーツと体罰について - ニュース・コメンタリー - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局)では、体罰が効果的かどうかは社会背景に、つまりラフな言い方をすれば文脈に、依存すると結論されてるように見える。

もっとも、この見解に完全に同意する必要はないと思う。体罰という方法は、スポーツ科学というかコーチングの理論によって効果が極めて不十分だとすでに立証されているのだと主張する人がいても(現にいるが)驚くことではない。例えて言えば、梅毒の治療にかつて水銀製剤が用いられて、これはそれなりに効能はあったけど、もちろん水銀は有毒なので今や使うべきではない、という状況と似てるかもしれない。

さて、哲学者は体罰について何が言えるのか。もちろん何も言う必要がないのは明らかだが、ふとウィトゲンシュタインを連想してしまった。彼が気まぐれにも(失礼!)小学校教師をしていたのは有名な話だが、その彼は児童への体罰がきっかけとなって退職したのもまた有名な話である。

彼[=ウィト]は、たとえば生徒たちのために何週間もかかって猫の骨格の標本を作って見せるなど、どの任地においてもきわめて熱心に教育に取り組み、かつ生徒たちからも慕われたようである。だが、親たちはこの異様な教師に反感を抱き、26年の4月、一人の生徒に体罰を与えたことがきっかけとなって、退職を余儀なくされることになる。*1

もうあまり覚えてないけど、たしかバルマリーの本とかで読んだ記憶だと、ウィトゲンシュタイントルストイの影響で純朴な農民の暮らしにあこがれて農村で小学校教師をやるという理想に燃えたのだが、農民どもは純朴どころか狡猾で、しかも子供たちを労働力として欲してるので、居残らせてまで勉強させようとするウィトに反感を覚えた、というのが真相だったかな…。