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Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

述語論理

ソーカルとブリクモンの『知の欺瞞』には、ラカンクリステヴァが述語論理を誤解していると指摘する箇所がある。例えば、

  • 記号論理学では、否定はwffにしか適用することができないが、ラカンは量化子に否定をつけようとする。しかも、「量化文の否定を意味しているのでしょう?」という好意的解釈を踏みにじるかのように、そういう意味ではないとはっきり言っている…(p.47)。

この箇所に関して、ラカニアンは「とりあえず量化記号に否定がついている場合は直観主義っぽくやってくれ、という程度の合図だと考える」ようにしているらしい*1。へー…。

  • クリステヴァは、述語論理と命題論理を混同しており、また編集者が `propositionnelle' を `proportionnelle' と書き間違えたことから、「比例論理」という珍名称が生まれたという(p.68)。

これに関するクリステヴァ[研究者]の弁明は、残念ながら見たことがない。[追記(2014/4/8):『古代ギリシア・ローマの哲学―ケンブリッジ・コンパニオン 』を読んでいたら、これとは逆の間違いを見つけた。「エウクレイデスは素晴らしい明敏さで命題理論を発展させている(第五巻)」とある(p. 414)。『原論』の5巻でユークリッドが発展させたのは比例の理論であって、命題の理論じゃない]

 

ところで、何年か前に『セミネール』の読書会に出た経験がいちおうあるので、ラカンに関しては私はそれほど悲観的な見方をしているわけではない。古典的な文学の知識がある人には、『セミネール』は面白い読み物なのだろうという予感だけは共有できた。

他方、クリステヴァに関して、私はいくつかの理由でもっと悲観的だ。まず、『知の欺瞞』の序文にあるように、彼女は『知の欺瞞』を評して、アメリカの反フランス的な経済・外交運動の一環だという人身攻撃に打って出たという。"So what?" と誰もが思うのではないか。それから、『中国の女たち』に対する山形浩生amazonレビューも痛烈だと思う。長いけど引用しておく。

クリステヴァ中国共産党の手配で、文革末期の1974年に中国を二週間ほど訪れた。そのときの感想文が本書。二週間のパック旅行(それもかなり駆け足で各地をまわっている)ではろくなものが見られなかったようだ。話を聞いた相手はすべて、共産党の(当時の)公式見解しか語っていない。それでも分量が足りず、半分以上はマルセル・グラネの受け売りで昔の中国における女性の話をしたり、共産党初期の女性党員の話をしたりだが、いずれも聞きかじりレベル。

そして最終的には、共産革命が中国古来の男性重視家父長制を打ち破ろうとしていたとか、文革で女性の地位はかつてないほど向上とか、紅衛兵たちは親たちの劉少奇的な反動主義を打ち破ってさらに前進しようとしているとか、林彪がのさばっていたらひどいことになったとか、共産党のプロパガンダをそのまま繰り返し、「中国においては《神》のない、また《男》のない社会主義を目指す道が選ばれている」などと結論づける。

要するに、小難しい言葉で中国と文革の翼賛をやっているだけなのだ。かつて日本の一九八〇年代末のニューアカデミズムはそれを見抜けず、本書を「異邦の女のまなざし」などと持ち上げていたけれど、いま読むとひたすら悲しく情けないだけの無内容な本。