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Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

吉本隆明の言語論

橋爪大三郎によれば、吉本隆明はどの言語にも品詞があるのは何故かという問いに取り組んだのだという。結論としては、吉本は自己表出と指示表出という2つの概念を基礎にたてた上で、ベクトル分解の要領で各々の品詞の相対的位置を描くことができるというものだった*1。この結論だけ見ると「へぇ」と思うのだが、次のような文章を見せられるといささか幻滅する。

たとえば「花」とか「物」とか「風景」とかいう言葉を使うとき、これらの言葉は指示表出のヨコ糸が多く、自己表出のタテ糸は少ない織物だ。別の言い方をすると何かを指すことが一番大事な言葉である感覚と強く結び付いている。…まったくこれと逆に、いわゆる「てにをは」つまり助詞をとりあげてみると、これらは指示表出性は極めて微弱だが、自己表出性はなかなかのものだと考えられる。[『言語にとって美とは何か』pp.7--8]

田島正樹氏は、ここでは言葉の意味が、何のためらいもなく文ではなく単語レベルで問題とされていて、これではフレーゲの文脈原理のような洞察は生かされようがない、と不平をもらしている*2。この不平はもっともだと思う。
橋爪大三郎吉本隆明についての概説書を書いている。しかし、彼の本を見ても、やはりフレーゲなどまるで「眼中にない」ようだ。

文法(統合)の問題、つまり、時間軸に沿ってさまざまな記号(品詞)が組み合わさって、どうして文全体の意味を構成するか。この問題については、ほとんど触れなかったのです。…この問題はずっと放置されていて、チョムスキが考察するまでは、ほとんど手付かずでした。いまでもチョムスキーからそんなに先に進んでいないと思います*3

『永遠の吉本隆明』は全体としてはそんなに悪い本ではないと思う。しかし、橋爪は社会学以外の人文系の分野について積極的に発言するものの、最近のキリスト教本(with 大澤真幸)も含めて、概して信頼がおけない。