supervaluationismについて少し調べようと思って、曖昧性にまつわる問題について一章を割いている一ノ瀬正樹『原因と理由の迷宮』にあたってみたが、3ページで片付けられていたので(pp.126--128)、大して参考にならなかった。というか、この本のサーヴェイ部分はDominic HydeによるSEPの"Sorites paradox"のほぼパクリだし、supervaluationismについての叙述も細かく見るといろいろ問題があるような気がする。
少なくとも「超真理」に関しては、古典論理での真理と合致する。けれども[…]「重評価論」のロジックは、超真理を「D演算子」で表し、中間部についての文を「I演算子」を用いて表すというアイディアと結びついていて、明らかに非真理関数的である。すなわち、 要素の真理値が決まれば全体の真理値も一意的に決まるとは必ずしもいえない。たとえば、pとqがともに「中間部」にある文で真とも偽ともいえないとき、(p∨〜q)と(p∨〜p)とはどちらも真とも偽ともいえない二つの選言肢からなる選言だが、(p∨〜q)は依然として真とも偽ともいえないが、(p∨〜p)はいかなる「精確化」においても成立するゆえに真となってしまう。
一文目は意味がよくわからない。二文目だが、非真理関数的であることの理由として、D演算子が使われていることを挙げるだけでは不十分だと思う。弱クリーネの三値論理などでもD演算子を使えるけれども、これは真理関数的。
しかし、すべての古典論理のトートロジーが維持できるわけではない。たとえば、ウイリアムソンが指摘するように、古典論理のpからDpは導けるとしても、〜Dpから〜pが導けない。つまり、「対偶」が成立しないのである。
「φからψが導けるのは、〜ψから〜φが導けるとき、そのときに限る」と定式化した対偶は、トートロジーではなく、トートロジカルな帰結と言われるべき。それは措くとしても、対偶への反例としてここで挙げられている例はD演算子を含むことから、単なる命題論理の言語ではなく拡大された言語になっている。一般には、supervaluationismは論理を変えるわけではなく、古典論理のトートロジーは維持される、と言われることのが多いと思う。言語を拡大した場合の話だ、ときちんと断るべきだと思う。
- 作者: 一ノ瀬正樹
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