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Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

古文

大学受験の勉強しているときに1つ思ったのは、古文の問題を解くのに[文法とかを別とした]背景知識はどの程度必要なんだろう、ということだ。問題に使われる文章は有名な古典の1節であることが多いけど、実際試験で読まされる分量なんてごく僅かでしょう。喩えて言うなら、『ドラゴンボール』の適当な箇所を20ページくらい読まされて「クリリンとは何者か?」と聞かれるようなものですよ(ぇ)。というわけで背景が重要になる…。

そんなことをふと思い出したのは、知人に薦められた次の本を読んだせいである。

心にグッとくる日本の古典

心にグッとくる日本の古典


この本は対談本だけあって古典特有の堅苦しいところが殆どなく平易である。著者の解説は、行間をどこまで深く読み込めるかという一点に絞り込まれている。この情熱は[一般向けの本としては]ある意味異様で、例えば『源氏物語』「桐壺」の冒頭2頁に対して100頁近い分量を割いて、紫式部がどういう意図で多様な表現を用いたのかを論じている。

これに関連してどうしても連想してしまうのは、それだけの情報量が本当に原文に詰まっていると考えてよいのか、というパズルだ。言い換えると、著者の意図はどこにあるのか。テキストの中か、それとも環境の中か。やや唐突だが、似たような問題は生物学でも生じる。鳥の翼は空を飛ぶためのものだと誰もが思っている。しかし、この機能は鳥の翼の中に隠れていると考えてよいのか。例えば、大気の条件が地球と異なる惑星の知的生命体は鳥の翼を見てどう思うか。

実際には、全くヒントが無いわけではない。上の知的生命体はこういう疑問から出発できる。「なぜこの生物と思しき物体は横に大きく伸びた身体器官を持っているのか。デザイナーは何を意図してこういう器官を備えさせたのか」と。デザインの奇妙さ、あるいは(もしこう言うのが適切であるなら)エントロピーの低さが推論の手掛かりになることがある。こういう推論が可能であるという意味では、情報量はその中にあると言ってよいことになる。

さて、テキストの解釈はこれと同じ要領で進むことがあるのではないか。私たちは昔のことをあまりよく知らないかもしれない。しかし、「なぜ著者は稀にしか使われないこの表現を使ったのか?」「この冒頭にはどういう伏線が隠れているのか?」という風に問いを立てることはできる。

まぁ、実は私は古文がとても苦手だったんですけどね…。