Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

大澤真幸について

大澤真幸とは?

大澤真幸氏は1958年生まれの社会学者。東京大学で博士号を取得、千葉大学を経て、1997年に京都大学助教授、2007年に教授に昇格。しかし、2009年にセクハラ疑惑で辞職した。最近は、大澤が個人的に編集している思想誌『Thinking O』を中心に活動している。

大澤には、教授時代から多くの著書・編著がある。新聞、雑誌、視点・論点のようなテレビ番組にも登場し、気鋭の学者として数十年にわたって活動してきた。大澤に関するマスメディアの評価は概して高く、高度に抽象的な論理と、現代社会の諸現象を巧みな手腕とバランスで扱っていると言われる。彼の著作の帯などには「スリリング」な論考、といった言葉がおどる。

評価

大澤に対する知識人たちの評価はマチマチである。

哲学者による評価

  • 中世哲学の研究者である山内志朗は、『現代思想』の書評論文「『行為の代数学』を読む」において、大澤の形而上学をスコラ哲学における存在の一義性の思想と近しいものとして評価する。
  • 永井均は『恋愛の不可能性について』文庫版によせた解説で「十五年ほどまえ、本書に収められた「逆説の合理性」を含む大澤真幸の諸論文に接したときの驚きはいまも忘れることができない。宇宙の森羅万象を、ただ抽象的な形式を抉り出すことによって理解し、説明し尽くそうとするこの若い社会学者の異様な意志に、私は度肝を抜かれた。大澤の異様さに比べれば、現代日本の他のあらゆる書き手は、あまりにも凡庸で、あまりにもチマチマしている」と記している(p.308) 。
  • 大庭健『他者とは誰のことか』は、名指しこそしてないが、「自己指示」や「暗闇の中での跳躍」といったタームを安易に持ち出す最近の論者として、大澤と柄谷行人を皮肉っている。

社会学者による評価
J-StageJ-STAGE トップ)で「大澤真幸」と検索すると、彼の著作について書かれた書評が数多くヒットする。これらの書評は社会学者によって書かれている。著名人の評価としては、以下のようなものがある。

ネット上の評価
ネット上には大澤に対する批判が少なくない。数理論理学に対する無理解を指摘するものから、宗教に関する無理解を指摘するものまで幅広い。悪名高い『ふしぎなキリスト教』をめぐって議論が沸騰したことは記憶に新しい*3
また、大澤がセクハラ疑惑で辞職したにも関わらず、うやむやのまま文化人面していられるのは、彼の妻が大物フェミニストの吉澤夏子だから、という意見もある*4

私自身の印象
私自身は彼の学生ではないのだが、『文明の内なる衝突』の序章とか『自由を考える』の時代診断に、以前はけっこう納得させられてきた。しかし、議論の大きな飛躍や数学の誤用が次第に目につくようになってきた。大澤は数学や哲学を全然分かってない、といったネット上の批判も大部分正しいのではないか。こうした印象は私の中で最近ますます強くなってきた。こうした印象が正しいとすれば、メディアにおける彼の評価は過大評価に違いない。有名人なら何を言ってもいいわけではないのだ。

行為の代数学

大澤真幸『行為の代数学』は彼の博士論文で、大澤のその後の著作にも通じる様々な欠陥が現れているという意味で特に注目に値する。以下に私が理解した限りで纏めやコメントを載せておく。なお、ネット上の過去の議論もかなり参考にしているので、それほど真新しいものではないことを断っておく。

行為の代数学―スペンサー=ブラウンから社会システム論へ

行為の代数学―スペンサー=ブラウンから社会システム論へ

『行為の代数学』は、スペンサー=ブラウンという20世紀の数学者が書いた奇妙な論理学書『形式の法則』に対するコメンタリーの体裁をなしている。しかし、そもそも多くの数学者は、スペンサー=ブラウンは何ら新しい論理学上の業績をもたらした数学者ではないと断言し、軽蔑している。そうすると、大澤はそもそもコメンタリーを書く価値などないとみなされている数学者の仕事に関するコメンタリーで博士論文を仕上げたことになる。

スペンサー=ブラウンに対する批判は、彼は間違ったことを言ったわけではないかもしれないが、既知の事柄を見慣れない表記で定式しなおして新しさを演出しただけだ、といった形をとる。例えば、原始代数と原始算術という区別をみてみよう。『行為の代数学』によれば、原始代数は原始算術の「自己意識」であるという仕方で、両者は関係しているのだとか何とか。しかし、黒木のなんでも掲示板3が言うように、実のところ両者は(命題論理として解釈すれば)単に古典論理のsyntaxとsemantics に過ぎない。原始代数の中で二重否定除去が証明できた、とか喜んでいる箇所があるけれども、これなども命題論理の完全性が成り立ってよかったですね、という程度のことでしかなさそう。

スペンサー=ブラウンは、真理値Tと否定記号に同じ記号を用いている(「囲いcross」)。また、真理値Fは空白で表し、選言の記号を用いずに記号を並べることで表している(併置)。「囲い」は打ち込むのが難しいので貼り付けてみる。
 
分かりやすくするために、真理値Tを表す場合は"Cross"と、否定を表す場合は"cross(x)"と表記しよう。併置もきちんと明記する。すると原始算術の規則は多義性を引き起こすことなく、こう書ける。

  • Cross or Cross = Cross
  • cross(Cross) =

もう少し見慣れた表現を使うと

  • T v T = T
  • not-(T) = F

になる。
少し疑問なのは

  • T v F = T
  • F v F = F
  • not-(F) = T

は原始算術だとどう表現されるのかということだが、ひょっとすると、こういうケースは構文論的に排除されるのかもしれない。

まぁ、スペンサー=ブラウンのシステムは単なる二値論理である。それにしても、演算子の記号と真理値の記号に対して、わざわざ同じものを当てて多義性を引き起こす理由は何なのだろう。大澤真幸はこう言う。

数学は、あれやこれやの「経験科学」とは異なり、自らがその振舞いを模写し記述しなくてはならないような外的な対象を持たない。数学的な対象は、ただ数学的な操作によって、その操作の相関項として生み出されるのである。この点では、数学的コミュニケーションは、「経験科学」よりも音楽とよく似ている、とスペンサー=ブラウンは言っている。楽譜は、音を記述するものではなく、音を現出させるための命令群である。音楽的対象(音)は、作曲家が音に関して述べた命令(楽譜)に従った操作(演奏)によって、はじめて積極的に存在する。数学的コミュニケーションの基本形式も、記述ではなく、楽譜がそうであるような意味で「命令 injunction」なのである。対象(演算数)は、ただ(命令に従った)操作とともにはじめて現出するのである。*5

数学の内容が記号操作によって生み出されるとか、記号操作に尽きるという考え方は、昔ながらの素朴な形式主義を思わせる。この考えをどこまで洗練させられるかは面白そうな話題ではある。しかし、そのことと、演算子と対象の区別(ないしは操作と基底の区別)を捨てるということはだいぶ飛躍があるのではないだろうか。

さて、虚数の話をしている4.4節は正直私にはかなり意味不明だ。スペンサー=ブラウンの原始代数では二重否定導入と除去が定理になるので、否定に相当するcrossを用いて、f = cross(cross f) が成り立つ。ここまではよい。次に、二重否定は無際限に導入できるので、f = cross(cross(cross(cross ...) ) ) という等式が成り立つという。式の長さは有限ではないのだろうか、という疑問が生じるのだが、それは脇におこう。この後で大澤は無限は真部分と対応するという理由で f = cross (f) が成り立つという(!?)。これは矛盾なので、ここからの脱出口として虚数単位を導入することを提案する。さらには、中観派の四値論理に言及してみたりする。うーん、原始算術は二値論理ではなかっただろうか・・・。

ちなみに、出典を明記しなかったり、先行研究をあまり踏まえていないのも大澤の特徴である。例えば『行為の代数学』にはわずかながらデイヴィドソンの行為論に言及している箇所がある(pp.91-92, p.309n8)。どの文献を参照しているのかも記されてない上に、"pro attitude" に「前提的な構え」という謎めいた訳語をあてている。欲求を一種として含むような賛成的態度という意味だったと思うけど。"pro and con"の"pro"である。さて、この箇所で大澤は、意図的行為の説明は二つの水準の理由を記述しなければならない、それは欲求と信念である、と言うのだが、しかし、それだけのことを言うのにわざわざデイヴィドソンに言及する必要があるのだろうか。また、行為の因果論的説明を理由による説明と等置することについて、「数々の困難があることはすでに多くの論者によって指摘されている」と言っている。しかし、デイヴィドソンはそんなことは承知の上で反因果説に反旗を翻したのだし、少なくとも、彼の立場は現在では主流である*6

*1:東浩紀『郵便的不安たち』

*2:宮台真司サブカルチャー神話解体』、文庫版解説

*3:http://togetter.com/li/150577

*4:https://twitter.com/juns76/status/612517531991969792

*5:『行為の代数学』p.26。http://d.hatena.ne.jp/massunnk/20081002/p2も参照。『美はなぜ乱調にあるのか』でも似たようなことを言っていたと思う。

*6:他の例も挙げておくと、例えば『文明の内なる衝突』には、ヨーロッパで発生した自然科学は真理を目指していなくて単なる暫定的仮説だけを立てるところに特徴がある、とか言いきっている箇所がある。しかし、これって科学的実在論ともろに対立するから(cf. 奇跡論法)、自明ではまったくない。

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