伝統論理と現代の論理学の違いとして、主語概念の存在措定がよく指摘される。実際のところ、伝統的な三段論法の中には、存在措定なしには妥当でないものが幾つか混じっている。例えば、
- すべてのMはPである
- すべてのSはMである
- よって、あるSはPである
たしかに、二つの前提から「すべてのSはPである」が帰結する。問題は「すべてのSはPである」から「あるSはPである」が帰結するかどうかである。常識的には帰結しそうに思える。しかし、論理学の初歩で習うように「すべてのSはPである」という形式の文は
と記号化されるため、Sが空虚であればこの文は真になってしまうのに対し、「あるSはPである」が真であるためにはSが空虚であってはならない。よって、「すべてのSはPである」から「あるSはPである」が帰結することは、現代の論理学では、ない。つまり、伝統的に妥当とされてきた三段論法のいくつかは、現代の論理学では妥当な推論ではないということになる。
伝統的に妥当とされてきた三段論法をすべて守りたければ、全称命題の記号化・解釈をいじるしかない。例えば「すべてのSはPである」と「すべてのSはPでない」を
- ∀x(Sx→Px) & ∃xSx
- ∀x(Sx→¬Px) & ∃xSx
という風に解釈する。赤字の部分を加えて全称命題を解釈すれば、伝統的な三段論法の規則はすべて救うことができる。実際、これは自然である。子供のいない男性が、彼の子供がみな眠っているかどうかと尋ねられれば、子供がいないという理由で「そうだ」と答えるとは考えにくい。
しかし、伝統論理には対当表というものがある*1。それによると、全称肯定命題Aは特称否定命題Oと、全称否定命題Eは特称肯定命題Iと、矛盾対当の関係にあるとされる*2。つまり、一方が真なら他方は偽であり、ともに真であったりともに偽であることはない。ところが、全称命題の主語は空虚でないと解釈すると、AとOは矛盾対当ではなくなってしまう。「すべてのSはPである」を∀x(Sx→Px)と解釈し、「あるSはPでない」を∃x(Sx & not-Px) と解釈すれば、これらは矛盾対当の関係に立つ。「すべてのSはPである」を∀x(Sx→Px) & ∃xSxと解釈すれば、Sが空虚なときにはともに偽となり、矛盾対当の関係には立たない*3。
したがって、ここにはジレンマがある。伝統的に妥当とされてきた三段論法の規則をすべて守ろうとすると、対当表が壊れる。対当表を守ろうとすると、三段論法のいくつかが妥当でなくなる。伝統論理をそっくりそのまま維持することはできない。
このジレンマについて、ピーター・ストローソンは、それは見せかけだと主張した*4。主語述語文は主語概念が空虚でないということを前提する。よって、主語概念が空虚な文は有意味だが真でも偽でもない、と彼は考えた。そして、伝統的な規則ひとつひとつに対して、「もし文の主語概念が真または偽であるとすれば」という条件をつけることにすれば、伝統的に妥当とされてきた三段論法と対当表はすべて維持できる、と言う。
巧妙なアイデアだが、真でも偽でもないケースを考える必要がでてくるため、このアイデアを形式的に取り扱うのはだいぶ面倒になるに違いない。