Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

意味論的パラドクス

嘘つきのパラドクスは「意味論的パラドクス」などと呼ばれる。真理は意味論的な述語だからそう呼ばれるのだけど、意味論的な述語は真理だけではないので、例えば、次のような意味論的パラドクスもある。 

1 = 1

したがって、この論証は妥当ではない。

論証が妥当だと仮定すると、1=1という前提が真である以上、結論は真のはず。前提がすべて真のときは必ず結論も真というのが論証の妥当性なのだから。しかし、結論が真なら、この論証は妥当ではない。よって、最初の仮定は間違いであり、この論証は妥当でない。ところが、ここまでの論証は、まさに1=1という前提のみに依拠して当該の論証は妥当でないと正しく結論づけているのだから、むしろ、この論証は妥当ではないか…。

この議論は14世紀の論理学者ザクセンのアルベルトゥスに由来する(ただし、オリジナル版では前提が「1=1」ではなく「神は存在する」となっている)*1。この人はビュリダンの弟子としされ、例えば、ワインバーグ『科学の発見』には次のようにある。

ピュリダンの研究は、ザクセンのアルベルトとニコル・オレームという二人の弟子に引き継がれた。 アルベルトの哲学書は広く読まれたが、科学に対する貢献という点ではオレームのほうが上だった。p.184

山内志朗『普遍論争』に付録の事典によると

ほぼ同時期に活躍したビュリダンに比較しても、独立にみても研究は進んでいないが、スコラ後期の論理学者としてかなり重要な位置を占め、その『論理学』は、14世紀の論理学所としては最も洗練されたものの一つとみなされる場合もある。 

ここでいう『論理学』はPerutilis Logicaという本だろう。「有益な論理学」といったところか。いかにも教科書という感じのタイトルだ。

なお、同様のパラドクスは、同時代の偽スコトゥス(Pseudo-Scotus)も論じている。アリストテレスの『分析論前書』への注釈が、ドゥンス・スコトゥスの著作と間違われたためにそう呼ばれるらしいが、何者なのかは諸説あるようだ。この人物は爆発則(EFQ)を定式化した人としても有名だ。

関連記事

現代存在論講義I

移動中の読書で、倉田剛『現代存在論講義I』(2017年)をざっと読んだ。読みやすくていい入門書。最後に読書案内も載っているのだが、分析形而上学は日本語でよめる入門書が多くていいですな。この読書案内には載ってなかったけど、アール・コニーとテッド・サイダーの『形而上学レッスン』なんかも入門書としてよかった。

『現代存在論講義I』は、この手の入門書にしては注が充実してる。大学院生・研究者向けの情報という感じなのかもしれない。文献情報など、勉強になった。

気になった箇所を二つほど。

  • マイノング主義の説明をしている箇所の注(p.68n18)で、非存在者への量化ををあらわすのに通常の「∃」だと混同を招くので「Σ」を使う、とあるけど、そうなのだろうか?それは代入量化の記号では?と思った。プリーストの本だとフラクトゥールの「S」を使っていたような。
  • p.116の「(5)は、たとえ・・・」の段落はちょっと見栄えが変。インデントのミスだろうか。

関連サイト

結婚の掟

先日、レヴィ=ストロースの『遠近の回想』をとりあげた。この本は伝記なので、学術的な話はそれほど多くないのだが、10章「結婚の掟」は『親族の基本構造』に対する批判に答えようとしているところがあって興味深い。多少要約しながら紹介してみる。四角カッコの中身は私の感想。

 

『基本構造』を書いた時期、動物について近親相姦の回避に比較しうるどのような事実も知られていなかった。アリストテレス以来、動物といえばほとんど家畜を考察の対象にしていたからだ[そうなの?]。ところが、野生動物を観察するようになると、規制がないにもかかわらず同じ血縁に属する個体同士の交配は比較的稀であることが確かめられた。そこから、近親相姦の禁止は自然の中に起源をもつという人がでてきた。p.185

例えば、ベルベットモンキーは、近くに住む集団とオスを交換する。しかし、それを近親相姦の禁止だと解釈するのは飛躍だ。若い個体が思春期に達すると群れから追い出されるという一般的傾向があるのはたしかだが、それは食物を得るための競争だと解釈できる。近親相姦の禁止だという証拠はどこにもない。p.185f

近親相姦の禁止が自然のなかに基礎をおくのだとすれば、どうして執拗にそれを規則として定めようとするのかわけがわからない[フロイトの議論と似ている]。無文字の社会でも、近親相姦的な欲望がしばしば存在することを証明することわざが一冊の本になるぐらい沢山ある。p.186

同じ屋根の下で子供の頃から育った男女の間には互いに性的欲求が存在しないという議論もある。その証拠として、イスラエルキブツと台湾の例がくりかえし引用される。だが、それが何かを証明することにはならない。そういう性的欲求の欠如は、あらかじめ子供たちの性的関心を家族の外に向けさせることの結果かもしれないし。p.187

 

まとめ終わり。感想としては、近親相姦の禁止が「自然の中に基礎をもつ」ということを、人間以外の動物も人間と同じ意味で近親相姦を禁止するルールに従っているという意味ではなく、人間以外の動物も近親相姦を回避する傾向をもつという意味で解釈するなら、そんなに頑張って否定しなくていいのでは、という感じ。この辺は究極要因と至近要因の区別という定番のアイデアの使いどころであって、人間も含めていろいろな種類の動物が、究極的には近親相姦を避ける機能をもった行動パターンをもつ、ということは普通に言えると思う。近親相姦を回避するための至近メカニズムは種によって異なるんだろうけど。

というか、ざっと読んだ感じだと、まじでこの人、近交弱勢とか信じてないんじゃないかという気がするんだよなぁ…。気のせいだといいけど。

最後にでてくる、イスラエルキブツウェスターマーク効果の証拠になんてならない、という話はちょっと考えさせられる。実は、キブツの調査をしたスパイロという人はウェスターマーク効果を信じていなくて、エディプスコンプレックスの説を信奉していた。スパイロはエディプスコンプレックスの普遍性を否定したマリノフスキを批判するつもりで『母系社会のエディプス』という本を書いている。この本のことは、デイリーとウィルソンの古典『人が人を殺すとき』で知った(ボロカスに叩いてる)。ただ、私自身は未読なので論評は避けておく。

変換の概念

レヴィ=ストロースの伝記『遠近の回想』を流し読みした。伝記といっても、自分のキャリアについてレヴィ=ストロース本人がインタビューに答えるという体裁をとっている。会話なので読みやすい。

アメリカに亡命したとき、名前をClaude L. Straussにしよう、と言われたらしい。ブルージーンズの商標と同じだから、学生に笑われてしまう、と。そんなわけで、アメリカで暮らしていた数年間は姓の前半分を切除されていたらしい(p. 61)。橋爪大三郎の『はじめての構造主義』冒頭で、繁華街を歩いていてLevi Straussという文字列をみて構造主義がこんなに流行ってるのかと思った、という冗談みたいな話が紹介されていたのを思い出した。この偶然の一致は本人にとってもいろいろ不便だったのだね。

もうちょっと真面目な話題としては、変換の概念はどの分野からきているのか、という質問に対する答えが面白かった(pp. 206-207)。本人によると、この概念の着想は、言語学でも論理学でもなく、ダーシー・トムソンの『生物のかたち(On Growth and Form)』(1917年)という本からきている。なんでもトムソンは、動植物の同じ属のなかでの種相互の、あるいは器官相互の目にみえる違いを、変換によって解釈しようとしたのだとか。そして、この考え方には実に長い伝統がある。トムソンの前にはゲーテの植物学、その前にはデューラーの『人体比例論』…といった系譜がある。

ダーシー・トムソンという名前は昔どっかで見たような気がしたので、しばらく考えて、ドーキンス『延長された表現型』の1章に出てくるのを見つけた。たぶんこれで記憶していたのだろう。ドーキンスはこんなことを言っている(pp. 17-18)。 

ダーシー・トムソンの著名な「変形の理論について…」の章は、ある仮説を前進させたものでも検証したものでもないけれども、重要な仕事であると広く認められている。ある意味で、どんな動物の形も数学的変換によって類縁関係にある動物の形に変えられるということは、その変換が必ずしも簡単とは明白には言えないにしても、あきらかにその通りであり、必然的でもある。ダーシー・トムソンは数多くの例について実際に変換してみせているが、それでもなお、科学とは特定の仮説の反証によってのみ進歩すると主張すれば十分とする潔癖な人々から「それで、だからどうなんだ?」という反発を招いた。ダーシー・トムソンの章を読み、われわれが以前知らなかったことでいま新たに知ったことは何かと自問してみたとしよう。その答えはそれほど多くはないかもしれない。しかし、われわれの想像力は刺激され輝いている。われわれは立ち戻り、動物を新しい方法で眺める。そして理論的問題を、このばあいは発生学の、系統学の、さらにその相互関係を新しい方法で考えることになる。 

この引用箇所につづけて、ドーキンスは、自分の本でも似たようなことをやるのだ、と宣言する。まぁそれはともかく、レヴィ=ストロースの回想によれば、トムソンの本というのは人類学にまで影響を与えたわけだ。

Postscript (2017/9/30)

レヴィ=ストロースがダーシー・トムソンに影響されたという上述の話、ちくま新書小田亮レヴィ=ストロース入門』pp.52-55 あたりでも普通に紹介されていた。小実際にトムソンの本から「魚の座標変換」とかいう図も引用していて、イメージをつかみやすい。

しかし、小田本は、インセスト禁忌の説明の箇所で「遺伝的弊害じたいがじつは証明されていない」(pp.84-85)と書いていたりして残念だ。それに、誤植も結構ありそうだ。「子音三角形と子音三角形とのあいだの<変換>」(pp.73-74)とか、同性での結婚になっているp.109の図13とか。

未開人の思考

カリエラ族の婚姻規則がクラインの四元群によって表現できるというレヴィ=ストロースの発見を紹介した後、橋爪大三郎は次のように述べている*1

これは、なかなかのことではないだろうか。

ヨーロッパ世界が、えっちらおっちら数学をやって、「クラインの四元群」にたどりつくまで短くみても二千年かかった。つい最近まで、だれもそんなもの、知らなかったのである。ところがオーストラリアの原住民の人びとは、だれに教わらないでも、ちゃんとそれと同じやり方で、大昔から自分たちの社会を運営している。先端的な現代数学の成果とみえたものが、なんのことはない、「未開」と見下していた人びとの思考に、先回りされていたのだ。 

規則に単に合致していることと規則に(意図的に)従うことを区別しないから、こういう結論が出てきてしまうのだと思う。しかし、この区別は進化生物学の議論を参照するときには、必ずわきまえておくべきではないだろうか。

例えば、血縁選択についてのドーキンスの解説をみてみよう*2。彼はまず、サーリンズによるハミルトン批判を次のようにまとめる。分数は世界の言語においてまれにしか見られない。いわゆる未開社会には欠けている。動物たちがいかにして近縁度 r = 1/8 などと計算できるのか、と。ドーキンスはこれに続けて、次のように述べてハミルトンを擁護する。例えば、カタツムリの殻は対数螺旋を描くが、対数表をもっているわけではない。それでも、こういうケースで数学を適用することを誰も否定しないだろう。それなら、血縁選択において数学を適用することにも問題はないのでは?

一応の注意だが、橋爪の議論を否定したからといって、未開社会の人々を見下していいという話にはならない。上の議論だけでは、我々が彼らの思考に先回りされている、とは言えない、というだけ。

関連記事

 

*1:『はじめての構造主義』p.181

*2:利己的な遺伝子』pp.452-454

『言語を生み出す本能』を読み返す

スティーブン・ピンカーの名著『言語を生み出す本能』をひさかたぶりに読み返してみた。以前読んだときよりも知識がついたおかげか、前はほとんど流し読みしていたような箇所にも目がいくようになり、あらためて情報量の多い本だなと思った。

しかし、本書の出版は1994年であり、2017年現在からするといくぶん古い本であるのは確かである。この間、ほかの人々が本書についてどんなことを言ってきたのだろう、というのも気になる。批判的な論者として、日本でいちばん知られているのはトマセロかもしれない。トマセロはずばり "Language is Not an instinct" という書評論文を書いている。これは日本語で読める。

たしか、今年の『日経サイエンス』でもチョムスキー的な生得説を批判するトマセロの論文が載っていたと思う。リンクを貼ったこの書評論文と内容的に重なるところもあるが、両方読んでみるといいかもしれない。

ちなみに、トマセロは、言語学者の大多数はチョムスキーの普遍文法なんてものの存在を信じていないんだ、と口を酸っぱくして強調してる。これはたぶん本当なのだと思うが、実のところまだ確信を持てないでいる。前に知り合いから「言語学者のほとんどはチョムスキアンですよ」と言われたことがあるからだ。もっとも、そう言ってくれた私の知り合いは、周囲がチョムスキアンばかりの牙城で過ごした人だから単にバイアスがかかっているだけなのかもしれないが。

個人的には、ピンカーがトマセロに何か言い返してる文章があれば読みたいと思ってるのだが、見つけられないでいる。比較的最近の文章ではこんなのを見つけた。

ざっと眺めた程度だが、アンチ・チョムスキアンなんて眼中になさそうだ。

The misconception that Chomsky represents the dominant view comes from the fact that the opposition is divided into many approaches and factions, so there’s no single figure that can be identified with an alternative

チョムスキー的生得説のマトモな代案なんてないんだ、という感じだろうか。まぁ生得説が間違っていたとしても、本書が扱ってる話題は多様なので、本自体の価値は大して減じないとは思う。

他の話題として同じくらい注目を集めたのはサピア=ウォーフ説をボロカスに貶した第3章かもしれない。この本が出た時点ではサピア=ウォーフ説の人気はほぼ地に落ちていたので、ダメ押しのようなものだったのかもしれないが、それでもサピア=ウォーフ説には批判があるよ、というときに本書は言及される*1

ただし、サピア=ウォーフ説はその後ちょっとしたリバイバルを迎えていて、言語が思考に影響を与えるというアイデア自体はもっと丁寧に調べなきゃいけない、という雰囲気が形成されている。この辺の事情を知るには、今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書)が手ごろでよかった。もちろん、ピンカーも黙っていないわけで、『思考する言語』で新たなコメントを加えている。要点としては、強いサピア=ウォーフ説と弱いサピア=ウォーフ説を分ければ、『言語を生み出す本能』の批判自体は生き残るんだ、という感じだろうか。弱いサピア=ウォーフ説にもそれなりに興味深いところがあるので、ちょっと冷淡すぎんよという気もするが、私自身は基本的にピンカーの応答は正しいと思う。

ところで、あらためて本書を読み返したわけだが、いくつか誤訳っぽい箇所にも気づいた。2chでも指摘されていたが、やはり一番残念なのは次の箇所だろう。日本人がl, rの区別をできないという脈絡で、山梨先生が 

In Japan, we have been very interested in Clinton's erection.

と言ってピンカーが爆笑したという箇所なのだが、邦訳では「クリントンが当選したのは、私たち日本人には非常に気にかかることでしてね」となっている(上p.235)。それは山梨先生が言おうとしたことではあるが、文字通りに言ったことではない。あと、下巻の、マキャベリ的知性の進化を説明してる箇所でちょっと変な訳になってたりもする(p.202)。

もっと細くなるが、不自然な訳語の選択として、「語用論」が「用語論」になってるとか(上p.309)、「統率」と訳すべき箇所が「統御」になってる(上p.141)、「幅優先検索」と「深さ優先検索」が「横幅優先検索」と「深度優先検索」になってる(上p.284)、などがある。また、訳抜けに近い箇所としては、上巻のp.287などがある。袋小路文garden path sentenceを論じている箇所で、 

The horse raced past the barn fell.

The cotton clothing is usually made of grows in Mississipp.

という例文の訳が抜けている。とはいえ、これらはいずれも些末な瑕疵であって、全体としてかなり読みやすい本に仕上がってる。素晴らしい訳業だと思う。

最後に。本書Language Instinctは2007年くらいに増補版が出ていて、これには、ピンカーによる読書案内とかPostscriptがついている。ファンの人は要チェック(?)かもしれない。後記は章ごとにより新しい研究についての情報を紹介するという感じ。サピア=ウォーフ説であれば、今さっき書いたような話が、生得説との関連では、FOXP2みたいな遺伝子が具体的に見つかったよ、とか、エヴェレットによるピラハ族の研究とかも紹介されてる。山梨先生のエピソードに関しては、

Masaaki Yamanashi’s comment on Bill Clinton proved to be prophetic.

と記されている。

*1:例えば、飯田隆言語哲学大全』の4巻とかソーカル&ブリクモンの『知の欺瞞』など。

科学的説明のISモデル

ヘンペルによる科学的説明の理論は「DNモデル」が有名だが、彼は統計的説明にも一定の余地を残していたといわれる。ヘンペルによる統計的説明の理論は「ISモデル」と呼ばれる。ラフにいうと、ISモデルは適切な統計的説明が

  • Pr(G|F) = r
  • Fa
  • ==== [r]
  • Ga

といった形式をもつとする(ただし、rは1に近い値)*1。一つ目の前提は統計的法則。二つ目の前提と結論は個別の事実。統計的法則のもとに説明すべき事実を(疑似的に?)包摂するという感じだろうか。

DNモデルと同様に、ISモデルにも色々な反例が寄せられた。しかし、その話は別の機会に譲るとして、ここではISモデル、というか統計的三段論法の定式化の仕方について、最近気づいたポイントを紹介してみる。

内井惣七『科学哲学入門』p.104で、ISモデルの具体例として、次のような説明が挙げられている。

  • 日本車が一年間に故障する確率は10^-6である。
  • ジェリーの車は日本車である。
  • ∴ 高い確率で、ジェリーの車はこの一年故障しなかった

この例示の問題点は、結論に「高い確率で」という様相的なオペレータが出現しているところにある。ウェスリー・サモンの『論理学』によれば、この理解には問題がある。「高い確率で」という限定は推論の全体にかかるべきであって、結論にかかるべきではない(23節)。このポイントは演繹的推論の場合と比べるとはっきりする、とサモンは言う。例えば

  • 樽の中のコーヒー豆はすべてグレードAである。
  • 豆xはこの樽から取り出した
  • ∴ xは必然的にグレードAである

という三段論法を例にとると、ここでは「必然的に」という様相オペレータが結論にかかっている。しかし、これは誤謬推理だろう。「必然的に」は推論の全体にかかっていると理解すべき。「必ず、前提1と前提2ならば結論」という風に理解すべき、ということ。同じことが、統計的三段論法にも言えるだろう、と。

*1:演繹的推論でないので、推論線を二重線を使っている。面倒なので、等号を適当に並べて代用しているけど…。