「ブロンドジョークblonde jokes」で検索してみると、色々見つかった。そこそこ面白いのでお試しあれ。どういう背景があるのか知らないけど、金髪女性はずいぶん小バカにされているのだろうか。そういえば、コメディの『ビッグバンセオリー』で主人公たちの隣人でウェイトレスをやってるペニーは金髪女性で、ちょっと頭が弱い感じに描かれてるけど、こういうのが金髪女性のステレオタイプなのかね。
*1:ピンカー『人間の本性を考える(下)』p.184f
「支配の正統化」とはウェーバーが定式化して以来、支配に内在する永遠のパラドックスである。このパラドックスは、正統性は自らの内には正統化根拠を持たない、という矛盾に起因する。正統性が自らの正統化根拠を自らの内に求めることは、「クラスの混同」というラッセルの矛盾を冒すことになる。
正統性の根拠を自らの内にもつことはできない、という話がどうしてクラスパラドックスの話にすり替わるのだろうか。「タイプの混同」なら分かるが、「クラスの混同」というフレーズは奇妙ではないか。…といった疑問がすぐに浮かんだ。
しかし、その後でもう少し冷静になってみると、「この時代の社会学業界では、数理論理学の話題と無理やりでもいいから結びつけないと学者とみなしてもらえないといった空気が支配していたのだろうなぁ」という感想にかわった。実際、宮台真司も『システムの社会理論』の中で、当時は形式化へのオブセッションが強烈にあった、と言ってる(p.220)。この「オブセッション」という表現はここでの文脈にうまく当てはまっていると思う。彼自身も論文の中で、例えば「血讐のマルコフ連鎖」とかいう表現を使ってるのだが(p.272)、これとか何の意味もないと思う。「血讐の連鎖」でいいじゃん。
『世界史の哲学』という文章を大澤真幸が書いている。これは『群像』に連載されてるもので、今のところ『古代篇』『中世篇』『東洋篇』『イスラーム篇』『近世篇』が書籍になってる。まだ続いていて、もはや逝けるとこまで逝くという感じである。
たぶん、今までの大澤の文章をある程度読んでる人にとってはあまり新味はない。彼はいつも同じようなことを言ってるが、最近の文章を読んでそれまで理解できなかった筋が見えたということもないし…。たしかに、大澤が紹介している小話から得られる情報はそれなりに多い。何だかんだで彼はそれなりに博学だし。まぁ、参考文献一覧がないし、索引も付いてなくて使いづらいけど…。
でも、個人的にはもう正直、大澤の議論は利用する証拠にバイアスがかかってたり、単なる言葉遊びのペテンにしか見えなかったりで、読むのがつらい。新刊の『近世篇』もぱらっと眺めてみたけど、つらい。
大澤いわく、通説では、近代科学は言葉(聖なるテクスト)による論証を事実による論証に置き換えた。しかし、ガリレオによれば、科学とは宇宙と言うわれわれの眼前につねに開かれた偉大な書物を読むことなのであり、実験や観察はそのテキストを読むことだ。よって、事実による論証も一種の言葉による論証である(p.145f)。
自分は到底納得できないのだが、ちなみに、観察と実験を重視した王立協会のモットーが「言葉によらずNullius in verba」なのはどう説明されることになるのだろう。
また、科学革命の時期は経験に対する疑いが増した時期でもあったとしてデカルトの懐疑を傍証として挙げている。デカルトで科学革命を代表させるのは極端だし、デカルトの懐疑だと、2+3=5のような算術の真理さえ疑われるのだけどなぁ…。まあたしかに、デカルトは感覚は明晰判明性が低いとか、「たとえ経験がわれわれに反対のことを示すように思われても、われわれはやはり感覚よりも理性により多くの信頼を置くべき」(『哲学原理』)みたいな議論してる人だけど。
最近、親戚の子供が生まれつきの障害で苦労しているという人の話を聞く機会があった。18番目の染色体の異常によって生じる遺伝子疾患で、18トリソミーという。恥ずかしながら全く知らない障害だったので、その後で自分なりに少し調べたことをメモしておく。
そもそも「トリソミー」とは何か。ヒトは23対、合計46本の染色体をもっている。生殖細胞が作られるときには、ペアとなる相同染色体が接合してから分裂する。このプロセスを減数分裂という。減数分裂により、卵子と精子はふつうの体細胞がもつ遺伝情報を半分だけ持つことになるが、受精によって、染色体がペアとなることで遺伝情報の全体が取り戻される。問題は、減数分裂のプロセスで失敗がたびたび起こることである。よくある失敗は、ある染色体のペアが分離し損なうケースであり、これを不分離という。そして、ペアのまま染色体が生殖細胞に入ってしまうと、受精したときには一本の過剰な染色体をもつことになる。これがトリソミー(三染色体性)。
ヒトの場合、とくに21番目の染色体で不分離が生じやすく、そのため21番目の染色体を余分に持つ新生児が生じる。この状態を21トリソミーといい、この異常によって生じる障害がダウン症である。ダウン症は新生児600-1000例に一人の割合で生じる。結構な割合に思える。なぜ、21番目の染色体で不分離が生じやすいのか、あるいは、なぜ他の染色体では不分離がそれほど生じないのかはよく分かってないらしい。
こういうことは、スティーブン・グールドのエッセイ「ダウン博士の症候群」に結構詳しく書かれている*1。以前グールドのエッセイを読んだとき、私は「他の染色体では不分離がそれほど生じない」の「それほど」を見逃していたので、他の染色体ではトリソミーは生じないと誤解していた。しかし、そんなことはない、という例がまさに今回のケース、つまり18トリソミー(エドワーズ症候群)である*2。wikipediaによると、文献によって数字にバラツキはあるものの、3,000-10,000人に一人の割合で生じるらしい。たしかに、21トリソミーの確率よりはだいぶ低い。
18トリソミーによって生じる身体的かつ精神的な障害はダウン症と比べても極めて重く、男児の場合にはだいたい死産してしまう。生まれても生後1年以内に亡くなることが多いらしい。お笑いタレントのレイザーラモンRG(ハードゲイじゃないほう)は、娘を18トリソミーで亡くしたという記事を目にした。
ただ、私が話を聞いたケースでは、もう3歳になるとのことだった。うまくいけば、最近の治療によってある程度長生きできるのかもしれない。
写真を見せてもらったところ、3歳とは思えないほど小さな体だった。言葉も話せないようだが、両親を認識することはできるようで、とても可愛いとのことだった。
最近、歴史が面白いと思えるようになっていて、色々と啓蒙書を読んでいる。次の本はユニークで面白いと思った。
14-16世紀あたりのイタリアを中心に、興味深いエピソードを沢山紹介している。博識のおじさんの話を聞いているようで、純粋に楽しい。単に昔の話をしているだけでなく、現代とのつながりを意識させるような話題もある。例えば、北イタリアと南イタリアの鉄道網を見比べると、前者は直線的なのに、後者は蛇のようにクネクネしている、それはなぜか。こうした謎を解くには、かなり昔に遡らなければならないのだね。
中世後期とルネサンスを連続的にとらえる見方が20世紀になって流行るのだが、著者はそういう方向にはやや背を向けていて、いややっぱりルネサンス期には中世とまったく異なる合理的な精神が登場したんだ、些細な例外事象にまどわされてその断絶を見失ってはいけないんだ、といったスタンスを打ち出してる。このスタンスはプロローグでとりあげられるエピソードによって説得的に示されてる。13世紀の植物図鑑と14世紀の植物図鑑を比べると、前者はとうてい実在すると思えない化け物が描かれてるだけだが、後者ははるかに写実的になっている、とか。画家のジョットは、ヨセフが不安になった理由を、妻がいったい誰の子供を宿したのかと疑問に思ったから、と述べたのだが、こんなジョークはそれまでは到底言えなかった、など。
話題の取捨選択には、著者の好みによるバイアスがかなりかかっている。
フィツィーノ、ピコ・デラ・ミランドラなどの哲学者、ポリツァーノなどの詩人については、わたしは、もはや何の興味ももてない。もうしわけないがこういう人びとの話は割愛させていただいて… p.136
わたしはエラスムスやトマス・モアはどうもそれほどえらいとは思えない。本当の人文主義者として群を抜きひとり聳えるのは、16世紀のフランスの人モンテーニュである。p.141
このような書き方は、ふつうの学術書では考えにくいほど主観的といえる。ここまで露骨に価値判断をもちこむことは、普通ないと思う。とはいえ、こういう風に主観が入ってることで文章にある種の勢いとか味わいが加わってるのは間違いない。本書は専門書ではないので、別にいいと思う。個人的に、著者の趣味もいいと思っているし。ただ、註で参照してる文献を示してくれてたらよかったとは思う。そこは本当に残念。
残念ついでに、疑問に思った記述も指摘しておく*1。アメリゴ・ヴェスプッチが月距法でベネズエラの経度を測ったという(本当なら)素晴らしいエピソードを紹介してる箇所である。
アメリカ大陸の名のもとになったイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチは、1499年、ベネズエラを発見した際、天体を観測して、8月23日の夜の月と火星との合が6時半だったことを知った。ところが、かれがもっていたレギオモンターヌの航海暦(1473年発行)によると、これはドイツのニュールンベルクでちょうど零時に見られると予測している。そうだとすると、このベネズエラはニュールンベルクより5時間半だけ西へ寄っていることになるはずだ。経度は御承知のように15度につき1時間の時間差がある。アメリゴ・ヴェスプッチはニュールンベルクとベネズエラは32度半の差があると計算したのである。
この観測はみごとなまでに正しかった。p.160
この箇所はいろいろ変だと思う。経度は15度につき1時間の時間差がある(360÷24 = 15)のなら、32度半の経度差だと2時間ちょっとのズレしかもたらさないはず。少なくとも32度半というのは誤植だろう。
をみると、マラカイボ(ベネズエラ)が西経71.38度、ニュルンベルクが東経11.04度なので、その差は82.42度である。15で割ると約5.5なので「5時間半」という記述と整合する。でも、そもそも零時と6時半の差って5時間半じゃないと思うのだが、それは大丈夫なんだろうか…。
*1:ただし、私が読んだのは上でリンクをはった文庫版ではないので、以下の指摘が文庫版では修正されてる可能性はある。あと、ここでのページナンバリングは文庫版とはたぶんズレてるのでご注意。
俺は自分が貧乏人の生まれで、貧乏人の立場から見て、「弱者の味方リベラル様」の意見が全く役に立たず、むしろ弱者の敵になってる事実に怒ってるだけのアカウントなんですよ。たまたま受けてるのは、俺と同じような意見が世界的に表面化してるからでしょう。うまく言語化できてる方だと思ってます
昨日、アルファツイッタラーのeternalwind氏(@juns76)のアカウントが凍結された。
氏はネット上でも有名なミソジニスト・人種差別主義者だった。氏の汚言症は最近になればなるほど悪化の一途をたどっており、ツイッター上で彼から罵倒されたことのある人々は、今回の凍結に胸をなでおろしているか、快哉を叫んでいるだろう。
とはいえ、上のまとめをみれば分かるように、彼の凍死を残念がっている人がいるのも事実である。もちろん、そういう人の中には口汚い罵り合いを野次馬的に楽しんでいただけの下品な人もいるだろうが、他方で、氏の汚言症には辟易しながらも彼がしばしば傾聴に値する指摘をするのを楽しんでいた向きもあると思う。私自身はこの最後のタイプである。彼のアカウントはいずれ凍結されるだろうとうすうす思いつつ、でもそれはちょっと勿体ないと考えて、ツイートをコピペしてメモをつくってきた。たしかに、いまのところはtwilogが生き残っているが
これもいつまで閲覧できるかは分からないし、そもそも論点が整理されてないので読みづらい。そこで、余計なお世話ではあろうけれども、メモの一端を紹介しつつ氏を追悼してみたい。氏のファンはこのメモで彼のことを思い出しつつ偲んでやることができるだろう。また、氏のことを今回の凍死で知って「そんな人いたの?」という読者にも、以下のメモは何らかの役に立つかもしれない。
論理学のメモ。まず、次の問題を考えてみる*1。
Γ |= αvβ ならば、Γ |= α または Γ |= β といえるか?言えない場合には反例をつくれ。
答えはもちろん「言えない」。Γ = {αvβ} が反例になる。
しかし、これは古典論理の話であって、直観主義だと成り立つのでは?と言われたので少し考えてみた。たしかに、LJのカット除去定理の系で選言特性というものがあるので、完全性定理により
は成り立ちそうだ。これは古典論理にはない性質であり、例えば、|= αv¬α だが、必ずしも |= α または |= ¬α というわけではない。しかし、直観主義でも {αvβ} |= α または {αvβ} |= β が成り立つとは思えない。上のような選言特性を「Γ |= αvβ ならば、Γ |= α または Γ |= β」へと完全に一般化するのは無理ではないか。
…などと考えつつ論理学の教科書を適当に見ていたら*2、Γをハロップ論理式の集合に制限すれば、LJで「Γ |- αvβ ならば、Γ |- α または Γ |- β」が成り立つとあったので、この辺りが正解っぽいなと思った。確認・証明はご自由に。