Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

形而上学者ウィトゲンシュタイン

形而上学者ウィトゲンシュタイン―論理・独我論・倫理

形而上学者ウィトゲンシュタイン―論理・独我論・倫理

 

ハイデガーの研究者による、一風変わったウィトゲンシュタインの研究書である*1。主な検討対象は『論考』だが、中期あたりまでの一次資料も活用している。伝記も広く活用しているため、ウィトゲンシュタインの個人史に関心のある読者は、うまく整理されていると感じるだろう。

本書が打ち出すテーゼは「ウィトゲンシュタイン形而上学者である」というもので、著者はウィトゲンシュタインアリストテレスアウグスティヌスボエティウスなどといった過去の形而上学者たちの思考を受け継いでいることを示すことで、このテーゼを論証しようとする。多くの古典が参照されているので、哲学史に関心のある読者はウィトゲンシュタインについて勉強しながら哲学史も学ぶことができるだろう。

また、「意味(Sinn)」の原義は方向である(p.108)とか、「6.43 …世界はいわば全体として減少するかあるいは増加する」を読むときは「月が欠ける(Der Mond nimmt ab)」と「月が満ちる(Der Mond nimmt zu)」といった慣用表現を念頭に置くとよい(p.275)、などといったドイツ語に関する細やかな指摘が織り込まれているのも本書の特徴である。『論考』のドイツ語はそれほど難解ではないにせよ、こういう指摘は多くの読者にとって有益だと思う。

とはいえ、(i) ウィトゲンシュタイン形而上学者であるというテーゼを論じるために (ii) 多くの古典を参照するという本書のアプローチがどのくらい成功しているのか、生産的なのかは疑問が残る。

(i) に関して。著者はウィトゲンシュタインは一般に反形而上学者だと思われていると考えているようだが、その解釈はウィトゲンシュタイン論理実証主義の関係を強く結びつけることから生じており、現代ではあまり一般的だと思えない(本書の出版年が10年以上前ということを踏まえても)。そもそも、現代の分析哲学では形而上学が隆盛を極めているのだから、「ウィトゲンシュタイン形而上学者である」というテーゼがそれほど「挑発的」(p.3)なのかは疑わしい。

(ii) に関して。ウィトゲンシュタイン自身は「アリストテレスを一文たりとも読んだことがない」と言って(豪語して?)いる。著者によれば、そのことはアリストテレス形而上学から『論考』に光をあてることを妨げない。『論考』を貫く「別様にありうるもの―別様にありえないもの」の区別はアリストテレスに由来するのだから、云々(p.74)。しかし、著者が指摘しているアリストテレスとのつながりは表面的であるように思える。必然的/偶然的に相当する諸概念を用いた程度のことでアリストテレス存在論を継いでいると言えてしまうのなら、現代のほぼすべての哲学者はアリストテレスを継いでいると言えないか*2クワインのいう「アリストテレス本質主義」を全力で擁護するとか、そういう類の作業をやってはじめて、アリストテレスとのつながりを主張することが実質的な価値をもつのではないか。

著者の叙述スタイルは悪くいえば博識をひけらかすだけの衒学的なハッタリに見えることがある。ハッタリは古典の引用にとどまらない。「論理空間の幾何学」と題された節では、幾何学が空間の法則を探究するように、論理学は論理空間の法則を探究すると述べ、クラインによる幾何学の定義を引用する(p.96f)。

空間R内に、RをR自身の上へ変換する一つの変換群Gが与えられた場合、Gに属する任意の変換で不変な、R内の図形の性質を研究する科学を、群Gの幾何学という。 

著者によれば、事実と事実の像である命題はともに事実であり、同じ空間Rの中にある。事実を命題記号へと射影する仕方が変換群Gなのだそうだ。しかし、その変換群は「RをR自身の上へと変換する」のだろうか。命題は一種の事実であるが事実の全体ではないのに…。「事実から言語Aへの変換をa」とするとあるが(p.98)、それだとa*aという演算はどういう変換に対応するのだろうか。これらはこの節を読んで抱いた素朴な疑問で、私の単なる勘違いなのかもしれないが、『論考』の論理学が厳密な意味で幾何学だとか群だという主張には正直当惑させられた。

そもそもハイデガー研究者がなぜウィトゲンシュタインの本格的な研究書を書くのだろう、と疑問に思う人もいるかもしれない。たしかに、ウィトゲンシュタインハイデガーに関して好意的なことも言っている(p.69f)。だが、これだけでは「本格的な」研究書を書く動機として乏しい。『論考』の中に素晴らしい洞察があるからこそ取り上げるに値すると考えたに違いない。それはなにか。

著者は「論理定項は消え去ることができる」というテーゼを『論考』で提示された洞察として高く評価している。このフレーズは1914年10月25日の日記に出てくるが、『論考』でも4.013節に「私の根本思想」としてほぼ同じことが述べられている。著者がこのフレーズを重視するのはもっともであり、異論はない。ただし、その解釈となると話は別である。

まず、著者は「論理定項」として、「かつ」「すべて」などの論理語に対応する論理的普遍のようなものだけでなく、「愛する」のような関係語に対応する普遍まで含めていることを指摘しておきたい。著者はこの解釈をラッセルの『数学の原理』1節からの引用によって正当化している(p.84f)。

論理定項は次のものによって定義可能なすべての概念である。つまり、含意、項がそれの要素である集合との項の関係、「ようなものsuch that」という概念、関係の概念(the notion of relation)、そして上述の形式をもつ命題の一般的な概念に含まれうるような諸概念である。 

この箇所を読むと、ラッセルのいう「論理定項」には関係の概念が含まれているが、愛する関係が論理定項なのかは疑わしい。「関係」と「愛する」は別ではないだろうか。

たしかに、『論考』の中のいくつかの箇所が性質や関係は対象ではないとしているように見えるのは事実であり、それらを典拠にして、ウィトゲンシュタイン唯名論的だと言うのは結構なことだ。しかし、この解釈を「論理定項は消え去ることができる」というテーゼからの帰結として導くのは強引に思える*3

また、論理定項(論理的普遍)が存在しないことの何がそんなにありがたいのかも考える必要がある。本書を一読した限りで思いつく可能性は、普遍者も存在するという実在論よりも個体だけが存在するという唯名論の方が存在論的に倹約だから、といったところだ(pp.113-117; cf. p.90)。たしかに、存在論的倹約(著者はこんな表現は使ってないが)はいいことだ。しかし、論理定項は消し去ることができるという洞察は、むしろ論理的真理のアプリオリな性格を説明するという課題と結びつけられるべきではないか。*4。 野矢茂樹の論考本を読んだ人なら、そう考えるのが自然だろう*5

ちなみに、本書ではNオペレータの説明が他の文献("A Wittgenstein Dictionary")に丸投げされている(p.336n21)。もう少しself-containedな構成を目指してほしいところだ。先に紹介した幾何学の話も含めて、テクニカルな部分の解説は全体的に杜撰であり、細かなミスもみられる。例えば、ab関数について説明するくだりを見てみよう(p.109)。

命題pを否定するとどうなるのか。否定命題(~p)は、pを真とした事実を偽とし、pを偽とした事実を真とする。それは「WpF」に対して、否定命題(~p)を「FpW」とすることである(6.1203)。

言いたいことは分かるが、テキストに従うなら、正しくは「F-WpF-W」と書くべきであろう(6.1203)。著者は、Sinnの原義は方向であるという語学的な論点にひきずられすぎているように思う。

結論としては、本書は哲学史ウィトゲンシュタインの個人史に強い関心をもつ読者には推薦できる。ただし、論理学に関心のある読者には向いていないと思う。

*1:cf. 言語行為と規範倫理学(00)目次 | 永井俊哉ドットコム

*2:ついでに言うと、著者は、アプリオリ/アポステリオリの対と必然的/偶然的の対をほとんど区別してないように思われる。「別様にありうるもの―別様にありえないもの」の区別は偶然的/必然的の由来と言えるだろうが、アプリオリ/アポステリオリの区別の由来は、本性上より先/われわれにとってより先、という『分析論後書』1巻2章の区別のほうがふさわしいと思う。

*3:仮にこの解釈を認めたとしても、別の解釈上の問題が生じることに著者は触れていない。それはよく知られた問題である。つまり、性質が対象でなければ性質を指示する名もないということであり、命題が名の連鎖だとすれば、個体に性質を帰属する命題はどうなるのだろう、という問題だ。

*4:1915年6月1日の日記には次のようにある。「私が書くすべてのものは大問題を中心として動いているが、その大問題とは、世界のうちにアプリオリな秩序があるのか、そしてあるとすればどこに存するのか、である」著者もこの箇所を引用してはいる(p.142)。だが、引用の目的は『論考』の中心問題が存在論に関わるということを示す、という奇抜なものだ。

*5:野矢茂樹ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む』

命題変数

古典命題論理についてのメモ。命題論理において

  • A v not-A
  • A → A

のような式はトートロジーと呼ばれる。Pをどのように解釈しようと、これらの式は常に真になる。

この「どのように解釈しようと」という部分を、対象言語の中で直接に表現する方法として、命題変数に量化を行なうという手段がある。それによって、例えば

  • ∀p(p v not-p)

といった表現を得ることができる。

命題変数への量化を言語に導入すると、否定や連言や選言を定義することができるようになる(ラッセル=プラヴィッツ翻訳)*1

  • ¬A =df (A → ∀p p)
  • A & B =df ∀p( (A → (B → p)) → p)
  • A v B =df ∀p( (A → p) → ((B → p) → p) )

否定に関しては、不合理を∀p p で定義できるというのがミソになっている。EFQは全称例化の推論としてシミュレートする。

*1:cf. Russell, Principles of Mathematics, sec. 18-19

楽しいプロパガンダ

プロパガンダについて書かれた新書サイズの解説書を読んでみた。 

たのしいプロパガンダ (イースト新書Q)

たのしいプロパガンダ (イースト新書Q)

 

プロパガンダというと、堅苦しい政治宣伝のようなもの、例えば、北朝鮮のテレビ番組とかをなんとなく連想してしまう。しかし、本書によれば、そういうプロパガンダはたしかに沢山あるのだが、一般大衆にとっても親しみやすい娯楽作品の中に政治的メッセージをうまく埋め込んであるような楽しいプロパガンダというものもある。実際に効果を上げるのはそういう楽しいプロパガンダであり、宣伝の技術に長けた指導者(レーニン、ゲッベルス金正日など)はそういうプロパガンダをつくろうとする・・・

というのが、本書の趣旨であり、5章にわたっていくつかの事例が取り上げられる。具体的には、1章では戦前日本のプロパガンダ、2章ではソ連ナチスドイツなど欧米のプロパガンダ、3章では北朝鮮のプロパガンダ、4章ではオウムやイスラム国など宗教組織のプロパガンダ、5章では『永遠の0』など近年の右傾化した人々によるプロパガンダがとりあげられる。平明に書かれていて、悪くない本だと思う。

ちなみに、本書によると、「プロパガンダ」はもともとは宗教に由来する言葉らしい(p.136)。1623年、グレゴリウス15世は、宗教改革に対抗して新大陸へのカトリック布教を強化するため、「教義布教聖省Sacra Congregatio de Propaganda Fide」を設置した。動詞「propago」はもともと動植物を繁殖させるという意味なので、教義を普及させるという意味で使われたのはこれが最初だとか。こういう、ちょっとお勉強になるような事柄が書いてあるのもいい。

3章の終盤では、最近は歴史ですらプロパガンダ合戦の戦場になっているとして、中国の抗日ドラマなんかが取り上げられている。著者は「歴史戦」という表現に注目している。この辺はもうちょっと掘り下げてくれると、ネトウヨには嬉しいんじゃないかな、と思ったりした(喜ばせる必要は特にないかもしれないが)。関心のある人は次の本なんかがお勧めできる。

題材として取り上げられるのは韓流ドラマだけだが、色々と勉強になる。この本によると、韓国が時代劇ドラマを通じて歴史プロパガンダを大々的に発し始めたのは2000年代前半あたりらしい。中国が「高句麗は中国史の一部だ」とか主張しはじめたので、それに韓国がキレて国民の愛国心を鼓舞するために制作されたのが、高句麗の伝説上の始祖の生涯を描いた「朱蒙」。この本のトーンは、韓国人はフィクションである時代劇ドラマと歴史学の区別がつかない困った人たち、というもので、ネトウヨが薄々思っているようなことがきちんと書かれている。

げんきな日本論

 『ふしぎなキリスト教』→『おどろきの中国』につづく(?)対談シリーズの第三弾。ざっと目を通してみた。

類書としては東島・與那覇『日本の起源』あたりが挙げられるかもしれない。予備知識のない読者にとって『日本の起源』より読みやすいのは本書の利点だが、索引もないし、関連文献への言及があまりにも少ない。結局のところ、すでにamazonのレビューなどでも指摘されているが、このシリーズ本の内容の大半は「対談者の知識に基づく推察や仮説、アイデアによるもの」ということに尽きるのだろう。それゆえ、読者には話半分に受け止めるスキルが求められる。第一部、第二部の日本語の書き言葉について話してる箇所とか素人目にみてもヤバそうだよね。

自由な発想を書き連ねたこういうタイプの本は、必ずしも悪いわけではないと思うのだが、せめて出版する前に日本史の専門家に軽くでもいいから目を通してもらえばいいのに、と思う。日本史に明るくない私でもアレっと思う箇所がチラホラみられるのだが、チェックを受ければそういうツッコミどころは削れるわけでしょう。対談を正確に文字おこしすることに拘りでもあるんだろうか。なお、私が気になった箇所としては例えば以下のようなところ。

室町幕府なんか、しょうがないから、宋と貿易して儲けようとした。p.240 

の「宋」は「明」の間違いだと思う。

硝石は希少物資で、南米でたくさん採れる。それが流通して、ヨーロッパの船で日本に届く。硝石は、日本で採れないのです。p.277 

硝石を輸入に頼ってたのはその通りだと思うのだが、南米のチリとかで大量に採れるようになったのは戦国時代よりずっと後のことじゃないかと思う。

日本では鉄砲や大砲が戦場の主力にならなかった、補助的なものでしかなかった、大阪の陣では大坂城を大砲で打ち崩してしまえばよかった、などとも言われているけど(p.310)、ちょっと過小評価しすぎじゃないかなと思う。大阪冬の陣は砲撃の嵐で淀殿とその周辺に厭戦気分が広がったからとか言われてなかったっけ。

あと、信長の革新性を高く見積もっているのも最近の研究動向とはズレると思う。もっとも、これに関しては、むしろ最近の研究動向は信長の革新性を低く見積もり過ぎだという反論もありだと思うが、それならそう書くべきだと思う。

信長といえば、安土城に関して、天守=天主にもとづいてヨーロッパの聖堂建築からの影響を強調しているけど(pp.271-274)、これとか学界ではどちらかというと少数派ではなかったっけ。まぁ私はこの仮説は好きだし本当だったら面白いとは思ってるけど。なお、安土城の建築に関する論争史は、井上章一の『南蛮幻想』で学ぶことができるのでお薦めだ。

記述理論(3)

ラッセルの「表示について」は表示句を消去することに全力を注いでいる論文で、"is an F" のような述定表現すら例外にせず、"is F'" のような代用表現に置き換えようとしている、ということを以前このブログで書いたことがある。いささか病的な雰囲気を感じさせるところだ。

ところで、この論文はかなりウィットに富んでいることでも知られる。イギリス王室について予備知識をもつことで、より楽しんで読むことができるかもしれない。

有名な例文として「現在のフランス王ははげである」がある。この例文がどこから来たのか、論文を読んでしばらくすると忘れてしまいがちだが、もともと、この例文に先立って「現在のイギリス王ははげである」という例文が検討されている。当時の王はエドワード7世で、彼ははげだった(wikipediaの写真を参照)。この例文はエドワード7世についての文であるように見える。

で、この例文と形のうえでそっくりな「現在のフランス王ははげである」は一体誰についての文なんですかねぇ…というのがラッセルのパズルだった。このパズルを解く手段を与えるのが記述理論ということになる。パズルに関してラッセルは、論理学の理論はパズルを解く能力によってテストされうる、パズルは物理学における実験と同じ効果をもたらしてくれる、というようなことを論文のなかで述べている。

「表示について」で検討されるパズルは他にもある。その一つは、ジョージ4世の好奇心と呼ばれる。問題になる例文は「ジョージ4世はスコットが『ウェイヴァリー』の著者なのか知りたがった」である。スコット=『ウェイヴァリー』の著者なので、ジョージ4世は同一律を疑ったことにならないだろうか。ラッセルはヨーロッパ第一の紳士が同一律を疑うなんて信じられない、と書いている。これは皮肉であり、王子時代のジョージ4世は札付きのワルで知られていたらしい。

関連記事

固有名と固有名詞

分析哲学の文献を読み始めると「固有名proper name」という言い回しが多いことに気付く。中学や高校では「固有名詞proper noun」と呼んでいたはずなのだが…と思いながらも、次第にこんな区別のことは忘れるようになる。入門書をみても

固有名(固有名詞)*1 

とか

固有名あるいは固有名詞と言われる*2 

とか

哲学では固有名詞のことを「固有名」と称するのが通例*3 

などとある。しかし、区別をつけるとすれば、おおよそ次のような仕方で理解しておけばよいらしい、ということを最近知った*4

固有名は前理論的な概念であり、固有名詞は冠詞のような品詞の一種であり、品詞は言語を理論化するために生じる理論的語彙である。固有名詞はひとつの単語であり、どれも固有名の資格をもつ。たとえば、SaulとKripkeはどちらも固有名詞であり、Saulは若い女性哲学者の固有名かもしれないし*5、Kripkeは様相論理の完全性を証明した論理学者を指示する固有名かもしれない。Saul Kripkeは複合表現なので固有名詞ではないが、固有名である。The Holy Roman Empire, University of Manchesterなども、固有名詞ではないが、やはり固有名である。

なるほどー。

*1:青山『分析哲学講義』p.61

*2:服部『言語哲学入門』p.43

*3:三浦『ラッセルのパラドックス』p.106

*4:和泉悠『名前と対象』p.3

*5:Jennifer Saulという女性哲学者がいる。

利子の禁止

最近、モンタネッリ『ルネサンスの歴史』を読んでいるのだが、カトリック教会に対する批判的なスタンスがあちこちでにじみ出ていて面白い。例えば、14世紀の商人たちを紹介する12章にはこんな話がある。

金を持っているのが教会だけだった時代、教会は法外な利息で金を貸していた。ところが、世俗の私的資本が形成され始めると、アウグスティヌスとヒエロニムスの言葉を急に思い出して、金銭の移動による利得はすべて不正だと決めつけた。そのくせ聖職者は金貸しをやめなかったのだが、俗人が同じことをすると破門した。トマスは「正当な利子」なら合法だと言ったが、何が正当なのかをはっきりさせなかった。銀行家は非難をかわすために、高利の罪をおかすのは魂だが、銀行組織には霊魂がないから高利の罪はおかしえないと論じた…。

もしこの記述が事実だとすると、教会は一貫して利息をつけて金を貸すことに手を染めていたことになり、興味深い。大澤真幸の本とかを読むと*1、彼はウェーバーに追随しているので、資本主義の起源はむしろ資本主義に敵対的な心性に求めなければならない、としている。キリスト教は他の宗教と同様に利子を禁止していたが、締め付けがあまりに強かったので、そこから資本主義が出てきた、というストーリーを彼は何とかして描こうとする。でも、モンタネッリの言う通りなら、そもそも教会は最初っからガバガバだったのではないか。最初からガバガバなら、なし崩し的に利子をとることがアリになっていった、としても奇妙ではない。

ついでにいうと、大澤の議論には別の疑問もあると思う。彼は「ウスラ」を利子と同一視したうえで、不当とされた利子がどうして許容されるようになったのか、という形で問題を立てている。だが、当時でさえ、正当な利子が正当でない利子から分けられていたのではないか。例えば、商売の元手になるような資金の貸し借りにおける利子に関しては、商売が成功して元金以上のお金が返却されることが多く、商人どうしの信頼として内部処理された。つまり、黙認され、社会問題化しなかった。これに対し、消費者金融のようなものも13世紀にはすでにあって、これは困窮した個人に金を貸し付けて破産に追い込むので普通に社会問題化した。こういうケースこそがウスラと呼ばれうる*2。そこで思うのだが、困窮してる人間にすべきことは与えることであって利子をとってまで金を回収するのは不正義だ、という感覚は利子が一般化している現代人でもそれなりに理解できるのではないだろうか。もっとも、現代人だったら、悪いのは利子そのものというより利息請求が法外であることだ、と考えるだろうけど。

*1:例えば、『文明の内なる衝突』、『世界史の哲学 中世編』、『ふしぎなキリスト教』など

*2:八木雄二『神を哲学した中世』4章